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稚児舞台 (福島県二本松市)
2017/09/19 二本松市周辺の城巡りも終え、本日最後の訪問先は二本松観光ガイドにも名所登録されている「稚児舞台」です。 これは勘違いしやすい名称かもしれません。 それは神社の境内などに設けられている舞台とは全く違い、阿武隈川の渓流にある奇岩怪石を舞台に悲しい物語が云い伝えられている所です。 今日は晴天にも関わらず、先日の台風18号の影響で川の色は濁流と化していました。 稚児舞台は現在公園として利用されています。 また稚児舞台より車で2分程度の場所にある展望台に登れば、阿武隈川の蛇行と稚児舞台(四季の桜・紅葉)のコラボが素晴らしく見渡せます。 [伝説] =稚児舞台= 奥州征伐に来た源義家の大軍が阿武隈川を挟んで奥州の豪族安倍貞任の軍勢と数十日も対峙(たいじ)し、弓矢の合戦を繰り返していました。 天喜3年(1055)の春、双方の兵が疲れ果てた或る日のこと、源義家の部下が「京の都では稚児さえも舞を舞うのだ。田舎者のお前らにはそれもできまい。」と挑発的な罵声を安倍貞任にあびせました。 安倍貞任は「それまで言われては一門の恥」と激怒し、自分の2人の娘を稚児姿に仕立て、大きな岩を舞台に舞を舞わせました。 2人は花に遊ぶチョウのように優雅に舞ったといいますが、舞い終わった娘たちは「敵の前に生き恥をさらしてしまった」と抱き合い淵(ふち)に身を投じてしまいました。 =稚児石= 木幡山で戦勝を得た源義家が、凱旋の迎えを受けた時岩上で舞う童児の姿を間近に見ようと川を渡ったところ、馬もろともに落下してしまいました。 馬は死にましたが、義家はけがひとつ負いませんでした。 落馬跡とその血痕が石に残り「血駒石」と言われましたが、いつしか「稚児石」と呼称されるようになったといいます。
見どころ 四季の樹木 稚児舞台岩
アクセス 二本松ICから30分
所在地 福島県二本松市上川崎
オフィース街にひっそり佇む高崎城の面影 群馬県高崎市
高崎城跡 (群馬県高崎市)
2017/09/20 二本松市の友人宅を後に、いよいよ帰路に就くことになりました。 高速道路を使いながら、史跡探索を兼ねていきたいと思います。 行程は東北自動車を南下して栃木県の岩舟JCTから北関東自動車道を経て群馬県に入ります。 ここで身近にある高崎城跡をチョイスし、少し休憩を兼ねながら見学します。 高崎ICから約15分で高崎市内のほぼ真ん中に高崎城跡公園があります。 周りは市役所や音楽センター、そして公共施設が建ち並ぶ中に乾櫓がひっそり佇んでいる姿は物寂しさを感じさせます。 殆ど人も訪れない友人宅の近隣の山里にあった城とは情景が一変したからでしょうか。 [歴史] 慶長3年(1598)徳川家康が井伊直政に命じ、開通直後の中山道(当時の中山道は現在の東京都より埼玉県、群馬県、長野県、岐阜県、滋賀県を経由し京都府に至る)の要衝「和田城跡」(高崎城の周辺あった城の跡地)に築かせた平城で、元和5年(1619)になって入城した安藤氏の三代に亘る77年間に全城郭が完成しました。 またこの「高崎城」は寛永10年(1633)に起きた徳川忠長幽囚自刃事件で有名です。 現在は乾門と外堀の一部がわずかに残っています。 [人物像] =井伊直政=(1561-1602)は徳川家康の家臣で徳川四天王の一人です。 彦根藩井伊家の祖でもあり、父は遠州井伊谷(現静岡県浜松市)の豪族で今川氏の家臣でした。 武田信玄が最初に採用した赤備隊(朱色の甲冑隊)が強軍だった為、そのイメージを継承する意味で井伊直政の軍も採用したとされ、この井伊直政と真田幸村の「赤備隊」が有名です。 =徳川忠長=(1606-32)徳川秀忠の三男で、「駿河」「遠江」「甲斐」「信濃」のうち五五万石を領し、駿河に住んでいました。 兄家光に対抗(家督争い)したため罪に問われ、高崎城に幽閉されました。その後城下の大信寺において自害(自刃)しました。 これには諸説あり忠長のご乱行(狂気)の為だったとし、自刃ではなく切腹させられたと言う説もあるようです。
見どころ 乾櫓 東門
アクセス JR高崎線高崎駅より徒歩約15分、バス約5分 関越自動車道高崎ICより約15分
所在地 群馬県高崎市高松町 城址公園内
石橋城跡 (愛知県新城市)
2018/04/21時刻は朝の6時過ぎです。 晴天に恵まれいよいよ今年の活動の第一歩を踏み出す日の幕開けです。 昨年2017/04/06に「続100名城」が決定して、今年の2月にガイドブックが発行されました。 第一弾の「100名城」には多くの方が旅行を兼ねて参加されています。 然し、全国津々浦々を網羅することは至難の業と云っていいほど、時間と軍資金が必要です。 それでもこつこつガイドブックに掲載されているスタンプ帳に、登録印を重ねていく楽しみは、ある意味人生の思い出の記録でもある訳です。 そして私もホームページ「旅情あふれる憩いの地」を更新しながら参加しています。 今回は私の住む愛知県にある新城市(しんしろ市)に向うことにしました。 目的は古城跡巡りです。 「長久手IC」より「新東名」を経由し「新城IC」まで向い、その後は一般道301で作手(つくで)方面ですが、やや戻るかたちなりました。 道の駅「つくで手作り村」で地域地図を確認したところ、意外と城跡が密集していたので効率よく巡ることが出来そうです。 しかもこの道の駅の道路向いに、早速「石橋城跡」を見つけました。 [ 歴史 ] 石橋城は、家康に仕え最後は中津10万石の大名となった奥平氏 (おくだいら氏) が、まだ三河の国人領主(小規模な豪族的支配者層)だった頃の一族が建てた居館跡で、「弾正屋敷」(だんじょう屋敷)とも呼ばれます。 長篠の戦いで活躍し家康に見出された奥平信昌の祖父にあたる奥平貞勝の時代、天文六年 (1537) に石橋城主だった弾正繁昌は主君に反旗を翻し謀反を起こしましたが、奥平軍に攻められ落城し討死しています。 後年になり、この地の徳岩明和尚が弾正繁昌と一族を哀れみ、近くの亀山城主だった貞勝より屋敷跡を貰い受け、寺地とし「石橋山慈昌院」を建立しました。
所在地 愛知県新城市作手清岳寺屋敷
見どころ 土塁の一部
アクセス 新東名高速道路「新城IC」より約30分 電車はJR飯田線「新城駅」からバスで「つくで手作り村」まで。 道の駅より徒歩約1分
文珠山城跡 (愛知県新城市)
2018/04/21愛知県新城市にある道の駅「つくで手作り村」の道路向いにあった「石橋城跡」から車で、ものの10分程度の所にある小高い山の上にあります。 「石橋城跡」より方位で言いますと、北西の方角になります。 山の上には復元されたであろう木造の簡易櫓があり、眼下を見渡せるようになっています。 また城跡の中央には文殊菩薩がある程度で、周りに際立ったものがないので、散策しながら城跡を想像するのも風情かもしれません。 [ 歴史 ] 「作手亀山城」(石橋城跡より南に約200mの山頂)の城主奥平氏の砦城で、元亀年間(1570~1572)に武田氏との和睦の証として、「塞之神城」(さいのかみ城、「文珠山城」より東北東に約500mの同山系山頂) と共に築いた城です。 この「文珠山城」は奥平氏が延引(先延ばしの意味)していたのですが、武田氏より強談に合い奥平氏が一夜にしてこれを築いたので、一夜城とも呼ばれています。 城跡中央にある菩薩小屋には、立派な獅子座に乗り、周りには3人の眷族(けんぞく、血族や親族の意味)を配置した、珍しい文殊菩薩が祀られています。
所在地 愛知県新城市作手清岳字見徳
見どころ 櫓 文殊菩薩
アクセス 新東名高速道路「新城IC」から約30分 電車はJR飯田線「新城駅」からバスで道の駅「つくで手作り村」まで。 道の駅より徒歩約25分
古宮城跡 (愛知県新城市)
2018/04/21 「石橋城跡」と「文殊山城跡」を経て漸く、お目当ての「続100名城」登録場所の「古宮城跡」(ふるみや城跡)に向います。 場所は「石橋城跡」から「文殊山城跡」に向かう途中にあり、「石橋城跡」から700m程しか離れていないので徒歩でも十分巡ることが出来ます。 そう言う訳で、順序としては「石橋城跡」より、この「古宮城跡」そして「文珠山城跡」に向かうのが順当でしょう。 現在は新城市では古城まつりを行っており、古宮城跡にも注目を集めています。 城跡は白鳥神社を中心に山林が覆い重なる低い丘陵地に位置し、山道は軟弱な坂道でところどころに土塁・郭らしきものが見られます。 詳細については現地の「作手歴史民俗資料館」で確認することが出来ます。 尚、スタンプ帳の登録印もこの場所にあります。 [ 沿革 ] 古宮城は元亀2年(1571)に武田信玄が築城し、その縄張り設計は馬場信春が行ったと言われています。 元亀元年(1570)に起こった「古宮城の戦い」は、武田信玄の侵攻によってこの地を治めていた国人領主(小規模な豪族的支配者層)の奥平氏は武田方に帰属をしていたのですが、元亀4年(1573)の武田信玄の死後、その奥平定能と定昌親子は徳川家康に内通し、天正元年に居城の「作手亀山城」(石橋城跡より南に約200mの位置)を退去して「滝山城」(現在の岡崎市にある宮崎神社の北にある山)に入りました。 そこへ武田軍が押し寄せたのですが、奥平一族が起こした突然の裏切り行為により、もぬけとなっていた「古宮城」は奥平定能と定昌親子の援軍として駆け付けた徳川家康軍の攻撃を受け、城は焼き払われ武田勢は敗走したことで知られています。
所在地 愛知県新城市作手清岳字宮山31
見どころ 市指定天然記念物の大ヒノキ(虎口)続100名城参照150
アクセス 新東名高速道路「新城IC」から約30分 電車はJR飯田線「新城駅」からバスで道の駅「つくで手作り村」まで。 徒歩約15分
作手亀山城跡 (愛知県新城市)
2018/04/21 古宮城址のスタンプを作手歴史民俗資料館でゲットしたので、本日最後の訪問先、「作手亀山城跡」(ここでは京都府や三重県にある同名「亀山城」と区別する為、「作手亀山城」とします)に向うことにします。 資料館から戻ること車で僅か3分程で到着です。 今回の城巡りの拠点にしていた道の駅「つくで手作り村」の裏山に大きな「亀山城跡」の看板を、どうして見落としたのでしょう。 恐らく道の駅の掲示板と道路脇の道案内に気を取られていたのが原因だと思います。 おかげで順路(本来巡るべき順路は「石橋城跡」→「作手亀山城跡」→「古宮城跡」→「文珠山城跡」)が支離滅裂となりましたが、兎に角目標は目の前ですから慌てずに登城しましょう。 登り口は80m位の勾配ですが、低い丘陵地に囲まれた盆地状の土地で、平坦な曲輪が多く比較的歩き易く、家族ずれでも登城して楽しめるスペースや四季の樹木を味わうことができます。 [ 歴史 ] 「作手亀山城」は、応永31年(1424)に奥平貞俊によって築城されました。 貞俊は天授年間(1375~1380)に現在の群馬県から、この地に移り住んで「川尻城」(「古宮城」より北に約500mの位置)を築いた後、この「作手亀山城」を築城してここに居城したとされています。 [ 豆辞典 ] 奥平氏の子孫信昌(初名は貞昌)は天正3年(1575)「長篠の戦い」で徳川方として功績あげ歴史に名を残しました。
所在地 愛知県新城市作手清岳字城山 地内(道の駅 つくで手作り村に隣接)
見どころ 四季の樹木 5月中旬の日曜日には火縄銃の演舞(古城まつり)
アクセス 新東名高速道路「新城IC」から約30分 電車はJR飯田線「新城駅」からバスで「つくで手作り村」まで。 徒歩約1分
一郷山城 (群馬県高崎市)
2017/09/20 高崎市内から一般道で約1時間の走行です。 高崎城跡の次の目的地は上信越自動車道の「吉井IC」よりほど近い「一郷山城」(いちごうやまじょう)です。 牛伏山の尾根の頂きから微かに見える櫓がその目標です。 車で登れるので諦めず登城できそうです。 登り始めて20分くらいですか、模擬城が目の当たりに見えてきました。 舗装された駐車場にぽつりと佇み、とてもユニークな感じがします。 周辺を見渡すと牛伏山自然公園の案内図があり、結構広範囲の観光地となっているようです。 また、櫓の中は資料館と展望台として利用されています。 [概要] 一郷山城は関東管領上杉憲実が鎌倉公方足利持氏と争った際に築いた城です。 実際は小規模な砦で、狼煙台として使われたと推定されます。 武田信玄によって攻め落とされた際に全焼しました。 現在は模擬天守が建てられていますが、時代背景や史実は反映されていません。 展望台と名付けられているだけに、最上階からの眺めが素晴らしく、望遠鏡も無料で使うことができます。
見どころ 展望台からの眺望 バードウォッチング
アクセス 上信電鉄・吉井駅から徒歩40分 上信越自動車道・吉井ICから30分
所在地 群馬県高崎市吉井町牛伏山