本州最南端の景観 潮岬灯台 和歌山県東牟婁群串本町
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湯の峰温泉・つぼ湯 (和歌山県田辺市)
2016/04/06旅と云えばやはり温泉ですか。熊野本宮大社からほど近い山間に湧く、「湯の峰温泉」「川湯温泉」「渡瀬温泉」の3つの温泉の総称が熊野本宮温泉郷と云われ、本宮参詣や古道歩きの多くの人に利用されています。中でも河原に沸く「つぼ湯」は参詣道の一部として世界遺産登録された名物温泉です。湯小屋に天然岩をくり抜いた正しく「壺」の様な湯船があり、底から源泉が湧いています。30分で交代の貸切り風呂ではありますが、誰にも邪魔されずに独り湯船を満喫できます。折角なので私も友人の勧めもあって入浴しましたが、余りの熱さで水をうめるだけで殆ど湯船に入れませんでした。でも良い思い出ができました。概要としての「つぼ湯」は日本最古の共同浴場と言われ、川岸の小屋の中には2から3人程度が入れる岩穴があり、そこに温泉が湧いています。1800年の歴史があるとされ、小栗判官回復の伝説があります。1日に7回も湯の色が変わると言われています。「つぼ湯」の少し下流に「湯の峰共同浴場」があり、「つぼ湯」はここが管理しています。豆知識として小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物であり、これを主人公とした日本の中世以降に伝承されてきた物語です。妻の照手姫(てるて姫)の一門に殺された小栗判官は、閻魔大王の計らいで蘇ると姫と再会し一門に復讐するという話です。説経節の代表作であり浄瑠璃や歌舞伎などになりました。常陸国(ひたちの国)小栗御厨((おぐりみくりや)現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子の小栗助重がモデルとされています。見どころ、と言うよりはズバリ体験どころとしての「つぼ湯」(入浴料770円別棟一般浴場分を含む)アクセスは熊野本宮大社よりバスで約20分「湯の峰温泉停」。





熊野古道と牛馬童子像 (和歌山県田辺市)
2016/04/06 いよいよ本格的に古道を歩くことにしました。と云うのは熊野古道のシンボル的存在である花山(かざん)法皇ゆかりの牛馬童子(ぎゅうばどうじ)像です。国道R311沿いの道の駅「熊野古道中辺路」から木の生い茂ったなだらかな山道を歩き、こんもりとした箸折峠の上に像が佇んでいます。小さな石像で花山法皇が熊野参詣に訪れた姿を表しているとか。この周辺は熊野古道のとして歴史ある王子社の数々を巡ることができるそうです。因みに王子社とは、熊野参詣に訪れる皇族や貴人の先達(道先案内人)を務めた熊野修験道により、熊野古道沿いに造られた儀礼場所群(神社群)のことで、訪れる参詣者の守護が祈願されました。また王子社は九十九王子社とも云われるようですが、実際に九十九の社がある訳ではなく数の多さを表しているようです。さて私はと言いますと、時間的体力的な事を鑑み、元の道の駅に戻り次の予定地に進むことを択びます。人物説としての、花山天皇とは冷泉(れいぜい)天皇の第一子として968年に生まれた師貞(もろさだ)親王です。師貞親王は2歳で皇太子となり984年17歳の時、花山天皇として即位しました。然し986年に花山天皇は藤原氏の策動により、在位後2年を待たずに19歳の若さで退位出家し、法皇となりました(退位した天皇を上皇といい、上皇が出家すると法皇と呼びます)。皇位を追われた花山法皇は、わずかな供を連れて熊野詣に向かいました。その熊野道のこの峠までやって来た時、それは昼時であり食事をしようとしたのですが、箸を忘れたことに気付きました。そこでやむなく供の者が茅を折って箸代わりに上皇に捧げました。そのとき茅の茎から、血のようなものがしたたり落ち、いぶかしく思った上皇は供の者に「これは血か、露か」と尋ねたとの話です。以来、その峠を箸折峠と呼び、峠を下ったところにある里を「近露」(ちかつゆ)と呼ぶようになったそうです。その辺りには、九十九王子社の一つとして「近露王子社」があります。見どころは里山の風景、牛馬童子像。アクセスは駅の道「熊野古道中辺路」バス停牛馬童子口より徒歩約15分。
潮岬灯台 (和歌山県東牟婁群)
2016/04/06 午前10時中辺路(なかへじ)を出発です。国道311号線から南紀白浜を経由して国道42号線を南下します。途中薬局に寄った程度で殆ど休憩を取る事無く、約2時間少々で目的地の潮岬です。本州最南端の地に漸く着きました、「やっと来た」という感じですね。大阪府に在住していた25年の間で、和歌山県は南紀白浜の白浜町と潮岬の串本町との途中にあるすさみ町の「見老津」(みろず)や「すさみ港」止まりでした。紀伊半島の事を、ご存知ない方が多いと思いますので一言申し上げるとすれば、紀伊半島とは信州は長野県程とは申しませんが、山深く奥が深い地なのであります。こと私の若き頃は今の様に全くと言って良いほど、道が整備されていませんでしたので、現在の道路状況を見ますと本当に夢のようです。言い方を変えればそれだけの夢の年月が過ぎたと言う事かもしれませんが、この年になっても人生やればまだまだ行けそうな気がしますが、大袈裟でしょうか。さて本州最南端の潮岬の灯台からは360度の大パノラマが楽しめます。食事は潮岬観光タワーで話題の近大マグロ(世界で初めて完全養殖を成し遂げた、近畿大学水産研究所の養殖マグロ)を頂くといいかもしれません。周辺には最南端の碑や串本大橋から紀伊大島へ繋がるルートで大島観光が堪能できます。また、42号線沿いの海に大小40以上もの岩が沖に向って並ぶ名勝「橋杭岩」があり、国の天然記念物に指定されています。道の駅「くしもと橋杭岩」でドライブの休憩がてらに見物ができます。見どころは潮岬灯台、紀伊大島観光、橋杭岩。アクセスはJR紀勢本線「串本駅」からバスで約15分。近畿自動車道「すさみ南IC」より約25km。
津城跡 (三重県津市)
2016/04/07 朝から生憎の雨で帰宅ということもあり、ゆっくりの朝食を終え帰路の愛知方面へ向います。上空の雨雲が厚く雨足が酷くなっても、ひたすら国道42号線を無心に走ります。三重県に入ってから少し小降りになりましたので、三重県の県庁所在地である津市にある「津城跡」に寄ることにしました。那智勝浦から大凡4時間ほど掛かり、津市役所に隣接した津城跡に着いたのはお昼過ぎです。霧雨の中ひとり城内の庭園を散策しながら、ノスタルジックに耽るのも風情があります。現在は遺構としての堀と石垣だけですが、模擬隅櫓が市のシンボルとなっているようです。沿革として、津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558 - 1569)に長野氏の一族の細野藤光(ほそのふじみつ)が安濃川(あのう川)と岩田川の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まります。永禄11年(1568)織田信長の伊勢侵攻により織田忠寛(ただひろ)別名は織田掃部(かもん)または津田一安が入城しましたが、翌年には織田信包(のぶかね)が入城しました。豊臣家の時代になると、文禄3年(1594)信包は秀吉の命により丹波国柏原(たんばかいばら)(現在の兵庫県丹波市柏原町)へ移され、翌文禄4年(1595)7月に豊臣家家臣の富田一白(いっぱく)が5万石(6万石とも)を与えられ入城しました 。一白の長男で信高は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)につき、安濃津城の戦いに於いて奮戦し、戦後江戸幕府より2万石の加増を受けました。その後慶長13年(1608)に信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢と伊賀の22万石をもって入城しました。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備しました。以後の明治維新まで藤堂氏の居城となります。見どころは隅櫓、春の桜、日本庭園。アクセスは近鉄名古屋線「 津新町駅」下車で徒歩約15分。伊勢自動車道「津IC」より約10分。
高山陣屋跡 (岐阜県高山市)
2016/05/18暫く岐阜県の北部にはご無沙汰していましたので、今回の目的地を岐阜県は飛騨高山方面に設定しました。起床は普段通りで、健康のバロメーターを維持しながら最高の一日を迎えるでしょう。そして5時には出発し、瀬戸市内の赤津ICから東海環状自動車道を利用して、一気に東海北陸自動車道に入るつもりでした。然し、土岐JCTがAM6時まで生憎の工事中となっており、止むを得なく途中下車し一般道R21よりR41を北上しながら、途中「道の駅」を堪能しつつ、高山市内には朝8時に到着です。所要時間3時間はまあまあの想定内です。目的地の飛騨高山市内にある「陣屋跡」のオープンまで45分程あります。少し朝市を見学してから入館することにしました。丁度「陣屋跡」の駐車場にも朝市の露店があり、観光客目当てにはもってこいの場所(陣屋朝市)となっています。そろそろ入館の時間です。入場券430円を払って入館です。ここで豆知識、そもそも「陣屋」とは江戸時代に郡代や代官が治政を行った場所で、御役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼びます。歴史は、飛騨高山藩主であった金森氏の所有する下屋敷でしたが、元禄5年(1692)に幕府が飛騨を直轄領として以降に伊奈忠篤らによって整備され、代官所として用いられるようになり、安永6年(1777)以降には郡代役所となりました。全国に唯一現存する郡代・代官所としての建物が残っています。人名事典として、清和源氏土岐氏流を称す大畑定近は近江国の金森村(現在の滋賀県守山市金森)から金森姓を称したとされています。その子金森長近が織田信長に仕え斎藤氏攻略戦などで活躍し、その後柴田勝家の与力となりますが、勝家が滅ぼされた後は羽柴秀吉に従い、天正13年(1585)に飛騨国を与えられました。慶長5年(1600)に行われた関ヶ原の戦いでは東軍の徳川家康方に付き、戦後高山藩主となりました。見どころは、高山陣屋跡 吟味所 御白洲 資料等 城山公園(高山城跡)アクセスは、JR高山線「高山駅」より徒歩約10分。東海北陸自動車道「飛騨清見IC」から約25分

熊野那智大社 (和歌山県東牟婁群)
2016/04/06 潮岬の串本にて日の暮れを待たず、那智勝浦への旅を急ぐ事にします。そこは熊野三山巡り(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)最終目的地の熊野那智大社が鎮座する場所になります。那智山には「熊野那智大社」、「那智山青岸渡寺」(なちせいがんとじ寺)、「那智の滝」が霊場として世界遺産に登録されています。漸く15時30に到着しましたが、徒歩での参詣(大門坂より約30分)には時間の猶予がありません。そこで熊野那智大社に近い駐車場から巡る事にしました。表山道の階段を登った場所に朱塗りの社殿があり、その隣に那智山青岸渡寺が建ち並んでいます。残念ながら「那智の滝」の近くまでは行くことは叶いませんでしたが、遠目に撮影することができました。今回の熊野三山を巡る旅は俄仕込みの旅ではありましたが、熊野の各大社を訪れる旅人同様、其々の想いで楽しみ満足を得て私も人生に旅の記憶を残すことができました。概要として、熊野那智大社は神武天皇が海上から、那智の山に光が輝くのを見て滝を探り当て、神として祭ったのが始まりとされています。仁徳天皇在位5年(317)に滝のそばから現在の地に社殿が遷座されました。御本殿には十三柱の神々が祭られています。那智山青岸渡寺は那智の滝で裸形上人(現在の印度から渡来した人)が感得した観世音菩薩像を安置したのが始まりとされています。西国三十三ヵ所霊場大一番札所としても知られています。豊臣秀吉が天正18年(1590)に再建した本堂は国の重要文化財に指定されています。豆知識として、元来熊野三山は神仏習合の修験道場でしたが、明治時代になって神仏習合が廃止されました。その中で熊野那智大社の如意輪堂だけが破却を免れ、後に信者によって「那智山青岸渡寺」として復興しました。見どころは「熊野那智大社」、「那智山青岸渡寺」、「那智の滝」アクセスはJR「紀伊勝浦駅」よりバスで約25分。近畿自動車道「すさみ南IC」より国道42号線経由で約65km。紀勢自動車道「尾鷲北IC」から42号線経由で約70km。