鳥取県鳥取市 川原城内
大阪城 (大阪府大阪市)
大阪府堺市に生まれ25年間ずっと慣れ親しんできたお城ですが、縁あって愛知県に引っ越し37年経った今、改めてお城巡りで大阪城を訪問するとは夢にも思いませんでした。2013/01/11にも奈良の高取城の帰りに寄ったのですが、残念ながら時間に間に合わずに窓口で断られてしまいました。そう言う訳で本日(1/23)は今月2回目の訪問になりますが、時間もたっぷりあり大丈夫です。大阪城は「夢は今も首都へ」の思いと同様に天下布武の織田信長が立案しましたが、志半ばで破れ後継者として豊臣秀吉が天正11年(1583)に築城を開始しました。しかしその後の秀吉も完成を待たず死去しの慶長4年(1599)頃に完成しました。その後秀頼が城主となりますが、関ヶ原の戦い、冬の陣、夏の陣を経て大阪城は落城しました。徳川家康が天下人になってからは幕府の直轄領となり、2代将軍秀忠、3代将軍家光と再築工事に携わり完成させました。特に豊臣時代の終わりを誇示する様に、豊臣秀吉の痕跡を一切末梢したのです。そんなことを知ってか大阪人は未だに太閤さんの城と情深く、今でも豊臣氏が徳川家康によって滅亡に追い込まれたと憐れむ風土があります。因みに豊臣秀吉の居城は京都の聚楽第と、伏見城でした。見どころは天守閣、大阪城公園、内堀石垣。アクセスはJR大阪環状線「森ノ宮」駅もしくは「大阪城公園」駅から徒歩約15分








通天閣・新世界 (大阪府大阪市)
私は大阪城の項目でも触れましたが、現在は愛知県に在住ですが大阪府に生まれ育ちました。それでありながら通天閣に登った事がありません。この通天閣のある町を新世界と呼びますが、当時はあいりん地区や飛田新地(遊廓、昔の赤線区)と隣接していた事も相まって、この新世界もその影響下にあり独特の雰囲気を醸し出していました。つまり若かった私がとても寄りつける様な所ではなかったのです。ところが近年NHKの朝の連ドラ「ふたりっ子」の舞台となり、また新世界名物の串揚げ「兄ちゃんソースの2度付けはアカンでえ」がTVで幾度か紹介され有名になると、急激に大阪の観光地として様相が一変しました。そこでこの機会にちょっと寄り道してみる事にしました。現在の通天閣は実は2代目で1956年に完成しましが、最初の通天閣は火災で焼失しています。現在は他県の方がこの地を訪れると、「これぞ大阪」と言う下町風情が堪能できると思います。通天閣の5階展望台には足を撫でると幸運が訪れると言うビリケンさんが鎮座しています。見どころは通天閣、新世界の飲食街。アクセスは南海電鉄「商売繁盛で笹持って来い」の掛け声で有名な今宮戎神社(えべっさん)のある「今宮戎」より徒歩約5分もしくは地下鉄堺筋線「恵比寿町」徒歩約3分

和歌山城 (和歌山県和歌山市)
百名城の登録が一県に一城しかないと効率が悪いのですが、考えによっては地図上の消し込みが早く終わると言う事でもあります。まあ、別に焦る事もなく道は長いので挫折しないよう頑張ります。今回(2012/12/20)は前述しました通り目的地は和歌山県唯一のお城に向かいます。名古屋から近鉄特急で難波(なんば)駅まで約2時間、虹の街(難波の地下街)を通り抜け南海電鉄難波駅より約1時間20分の和歌山へ直行です。駅からタクシー利用で「一の橋大手門」から入城した和歌山城の歴史は徳川御三家(尾州、水戸)として由緒のあるお城として長い歴史がありますが、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が異父弟の秀長に築城させたのが始まりです。担当したのが築城の名人の藤堂高虎(たかとら)で、本丸と一の丸を造りました。そして秀長は桑山重晴に3万石を与え城代(留守居役)に据え、その重晴は本丸を中心に手直しを行いました。慶長元年(1596)重晴の隠居に伴い孫の一晴が城代を継ぎました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後に東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられましたが、同じく東軍に属した浅野幸長(よしなが)が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となりました。その後元和5年(1619)浅野氏は改易となった福島正則の広島藩に加増転封となり、それに伴い徳川家康の十男頼宣(よりのぶ)が55万5千石で入城し、南海の鎮(しずめ)と呼ばれ徳川御三家である紀州徳川家が成立しました。頼宣は元和7年(1621)より城の改修と城下町の拡張を開始し、天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれる城となりました。これは姫路城と松山城に並ぶ日本三大連立式平山城の一つに数えられています。因みに紀州家は徳川時代に征夷大将軍を輩出した唯一の家です。見どころは連立平山城、天守資料館、季節折々の樹木。アクセスは南海本線「和歌山市」駅より徒歩約10分
高取城跡 (奈良県高市郡)
昨年2012年の11月から初めた城見聞と言うのは名ばかりで、正確には百名城スタンプラリーです。今回で18番目まだまだ先は長いのですが、定年後の新たな目標として始めました。しかし結構厳しい地形があるので体力も必要だし、また忍耐力そして孤独との戦いでもあります。さて高取城は日本三大山城として有名な城です。ビギナーから難所に挑戦しなければなりません。2013/01/11 朝早く近鉄名古屋駅から特急で壺阪山駅まで約2時間30分、思っていたより時間が掛かりました。壺阪山駅からはバスもありますが現地のバス停からも徒歩で40分掛かるそうなので、タクシーで行けるとこまで乗ることにしました。道中を車窓から見ているとやはりタクシーにして賢明でした。沿革(歴史)は戦国期〜江戸期の城で駅から南東方角の高取山頂上にあり、典型的な山城(やまじろ)として知られています。伝承では南北朝期に越智邦澄(おちくにずみ)が創築したとの説ですが詳細は不明です。戦国期に越智氏の本城貝吹城(かいふき城)の支城として機能していました。貝吹城が落城した後に越智氏の本城となり、越智氏の滅亡後は大和郡山城(やまと郡山城)の支城となりました。豊臣秀長(ひでなが)の重臣本多太郎左衛門(たろうざえもん)の時に大改修が施され、本多氏断絶後の寛永17年(1640)から植村氏が2万5千石で14代続き、明治維新にまで至りました。堀や石垣がよく残っていました。前述の日本三大山城は岡山の備中松山城と岐阜の岩村城で、備中松山城は古天守閣現存として見応えありますが、後の2城は登城に達成感と満足度があり下山も静寂と孤独感が満喫できます。見どころは高取山城の眺望、大手門、天守跡の石垣。アクセスは近鉄吉野線「壺阪山」駅から奈良交通バス「壺阪寺前」下車徒歩約40分。参考「城下町ハイキングコース90分(登り)」
名古屋城 (愛知県名古屋市)
私は名古屋在住なので名古屋城は既に何度か訪れた事があり、また仕事でもよく見かける景色でもありましたので、特に何かを意識して訪問する事もありませんでした。しかし百名城スタンプ・ラリーに参加してからは、少し歴史的な物事に多少興味を持てる様になりました。改めて本日2012/12/02 訪問してみます。城内では最近流行りのおもてなし隊が日替わりで、イベントや接客を務め戦国ブームを盛り上げ、お城への思いを再認識して頂こうと観光客を楽しませています。私も鎧甲冑の衣装に興味はありますが、着用して動ける年齢でもないので、ここは若いイケメンのお兄さんに譲りましょう。さて名古屋城ですが現在の天守閣は1959年昭和34(1959)鉄筋コンクリートにより復原されたもので、昭和20年の空襲で焼失を免れたのは西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓(清須櫓)、表二の門、東鉄門、西鉄門です。名古屋城本丸御殿は現在復元中で2017には完成する予定です。名古屋の歴史は古くは那古屋と書かれ、戦国期の城は那古屋城でした。那古屋城を築いたのは駿河の戦国大名今川氏親(うじちか)で、大永年間(1521〜1528)に氏親の末子の氏豊(うじとよ)を置いたのが初めと云われています。しかし氏豊は織田信秀(のぶひで(信長の父))に城を奪われ、信秀は生後まもない吉法師(きちぼうし(信長))をこの城に置きましたが、弘治元年(1555)信長が城を清洲に移すと共に廃城となりました。その後慶長12年(1607)徳川家康9男の義直(よしなお)が清洲城に入りましたが、清洲城の城地狭くまた水害の恐れもあった事から、新たに城を築く事となり、選ばれたのが期那の城地だったのです。1610年家康は豊臣恩顧の大名20人に名古屋城の普請(ぶしん(土木工事))を命じ、天守閣は2年後に出来あがりますが、二の丸御殿を含めての完成と言う事であれば、大坂冬と夏の陣を挟んで元和6年(1620)頃まで大規模な工事が進められた事になります。名古屋城がこのように豪壮なのは家康の子の居城であるだけではなく、大坂方への備えとして築かれた事を意味しています。尾張の徳川家は61万石余を領し、紀州と水戸の徳川御三家の一つとして義直から16代義宜(よしのり)まで続き明治維新にまで至ります。見どころは天守閣歴史資料館、二ノ丸庭園、名城公園。アクセスはJR「名古屋」駅から市バス「市役所」より徒歩約15分
岩崎城 (愛知県日進市)
愛知県長久手市在住の私にとって、一番近い城と言えば岩崎城です。区域こそ違いますが岩崎城は日進市で、時間にして車で10分くらいの所にあります。天守閣も復元されてこぢんまりとした模擬城ですが、日曜祝日には老若男女問わずハイキングなどで、四季の樹木など堪能できる憩いの場所になっています。また二ノ丸庭園の脇には水琴窟があり、訪れる人へ心地よい音色を奏でているようにみえます。岩崎城の歴史は、享禄二年(1529)頃に、織田信秀(信長の父)によって築かれた城です。後に松平氏が岩崎城を奪いましたが、天文四年に起こった「守山崩れ」の後、丹羽氏が本郷城より入城し、以来丹羽氏約60年の拠点となりました。天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦時、秀吉方の武将の池田恒興(池田つねおき)が、家康の本拠で三河の岡崎城を攻撃するために小牧を出発し、この岩崎の近くを通過しようとしました。しかし家康方であった守将の丹羽氏重(丹羽うじしげ)は、1.5万(諸説あり)の池田恒興軍に対し約300の兵で岩崎城から出撃し戦いを挑みましたが、丹羽軍は全滅し岩崎城も落城しました。しかしこれが時間稼ぎとなり池田軍は家康軍の追撃を受け壊滅し、池田恒興、池田元助(恒興の嫡男)、森長可((森ながよし)森蘭丸の兄)が戦死してしまいました。見どころは天守閣、岩崎城歴史記念館、岩崎城址公園。アクセスは地下鉄「星ヶ丘駅」から名鉄バス「長久手車庫」「五色園」行き「岩崎おんたけ口」下車より徒歩約3分。地下鉄「赤池駅」から日進市内巡回バスの「くるりんばす」にて「御岳口」下車より徒歩約3分
伊賀上野城 (三重県伊賀市)
2012/12/03まだ初めたばかりの百名城ですが、やはり近いところから周るのが順当と思い、東海3県中の甲賀と共に忍者で知名度のある三重県は伊賀上野城から訪問します。三重県はJRも使えますが近鉄電車に乗り慣れているせいか、つい使ってしまいます。伊賀神戸(かんべ)から伊賀鉄道に乗り継ぎを経て2時間位で上野駅(JRの伊賀上野駅とは異)に着きます。駅から歩いて5分くらいの道程なので、さほどの負担はないと思います。天正7年(1579)9月伊勢国の織田信雄(信長の二男)が8千の兵を率いて伊賀平定に乗り出しますが、伊賀衆(伊賀忍者)の前に一度は敗退しますが天正9年(1581)9月織田信長の援軍をうけ4万の兵で伊賀国を平定し、織田信雄の家臣である滝川雄利(かつとし)を伊賀国守護としました。滝川雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修し伊賀国を支配しました。本能寺の変(信長の死)の後の豊臣政権となると、天正12年(1584)10月脇坂安治(やすはる)が伊賀国守護となりますが、天正13年(1585)5月には摂津国に移封されました。これにより同年8月 大和郡山城から移ってきたのが羽柴の姓を賜った筒井定次で、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにしたのが伊賀上野城です。徳川時代には築城名手の藤堂高虎(とうどうたかとら)が入城し、大阪城攻めの拠点として大改修を進めた。豊臣氏が滅亡すると高虎は津城(三重県津市)に移り城代を弟の藤堂高清にします。藤堂高清の死後は藤堂元則が城代になり、文政8年(1825)藤堂高猷(たかゆき)が最後の城主となるまで世襲しました。見どころは高石垣の天守、上野公園、俳聖殿。アクセスはJR関西本線「伊賀上野」経由で伊賀鉄道「上野市」駅より徒歩約5分。近鉄大阪線「伊賀神戸」駅経由で伊賀鉄道「上野市」駅より徒歩約5分
松阪城跡 (三重県松阪市)
昨年の2012/12に鹿児島に行ったまま何処にも足を向けていなかったので、そろそろ重い腰を上げて動き出すことにしました。2013/01/10まだまだ寒いので、近場がいいだろうと思い三重方面に行く事にします。ただ出発する時間が遅かったので、今回は車での移動です。それと高速道のICが家のすぐ近くにありますので、多少のロスタイムはリカバリー出来そうです。三重県は以前に伊賀上野城に行きスタンプを貰って来ましたが、生憎時間の都合で松阪城には寄れませんでした。それで今回は松阪城一本釣りでいきます。名古屋から高速で松阪ICまで約1時間の行程で、高速を降りてから少し迷いましたがどうにか時間内に着く事が出来ました。松阪城の起源は元亀年間(1570〜73年)頃に潮長政(うしおだ長政)が砦を築いたとされています。天正12(1584)松ヶ島城(現存は松ヶ島町の径20〜30m、2〜3m高の丘陵跡)に入城した蒲生氏郷(がもううじさと)は居城が手狭で不便なことから、新たに四五百森(よいほの森)に新しく築城した。これが今日まで遺構として残されている松阪城の始まりとされています。その後天正10年(1590)に豊臣秀吉は小田原の北条氏を降した後、奥州仕置きを行う為に氏郷に伊達氏の目付的な役割を命じ、黒川城(のちの会津若松城)に転封させました。そして氏郷に代わり服部一忠が入城しましたが、豊臣秀次事件(秀吉の命により高野山で切腹)に連座して改易となり、文禄4年(1595)には古田重勝が入城しました。古田氏は徳川家康が幕府を開いた後も城主(初代松坂藩主)として存続しましたが、元和5年(1619)2代目藩主の古田重治の時代に石見国の浜田城(島根県浜田市)に移動し、同時に松坂藩は廃されて紀州藩領に組み込まれました。そして松阪城は南勢(伊勢南部)の紀州藩領17万9千石の統治の拠点となり、紀州藩から城代が派遣され明治維新を迎えたのです。見どころは松阪市歴史民俗資料館、本居宣長記念館、表門石垣。アクセスはJR紀勢本線(近鉄山田線)「松阪駅」より約15分
津山城 (岡山県津山市)
2013/05/12再び中国・四国方面に「旅情あふれる憩いの地」を求めて旅立つ事にしました。日曜早朝5:00頃自宅を出発しました。今回は公共機関を使わず自車での移動です。公共機関による乗り継ぎ等の待ち時間ロスや現地での効率を考慮した決断ですが、さて時間に多少でも余裕が持てるかどうか、吉と出るか凶と出るか旅の始まりです。自宅から高速ICまで僅か5分で東名名古屋に入れます。まずは目標の津山城の岡山県まで、いっきに移動で予定約4時間の行程です。道中は早朝の出発が功を奏し、空いた高速を悠然と走行しながら津山ICに到着。津山城に着いたのは一般道も含めてほぼ予定通りの9時台でした。現地では10時前なので土産店もこれからの開店支度です。お城は復元の巨大な備中櫓だけですが、三の丸や二の丸から見上げるとその存在感は圧巻です。沿革は、慶長8(1603)美作(みまさか(現在の岡山県津山市一帯))一国18万6千5百石の国持ち大名(初代藩主)となった森忠政は、入封した翌年から13年の歳月を費やして築いたのが津山城です。元は守護大名であった山名氏が築いたとされる鶴山城がありましたが、山名氏の衰退と共に廃城となります。その跡地に築城したのが津山城で別名に鶴山城と呼ばれています。元禄10年(1697)には森氏は断絶し安芸国広島藩主の浅野綱長の預かりとなりますが、 元禄11年(1698)に 松平宣富(越前家)が越後国高田藩より10万石で入封し、以後明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。津山城は典型的な平山城で津山盆地の中央に位置します。高くそびえる石垣は津山市のシンボル的存在で、国史跡の城跡は鶴山公園として整備され、桜の名所にもなっています。見どころは備中櫓、櫓歴史資料館、桜の名所。アクセスはJR津山線「津山」駅より徒歩約15分
河原城 (鳥取県鳥取市)
2013/05/12津山城ではひと時の憩いを堪能しましたが、気持ちを切換え鳥取県に向うことにします。宮本武蔵の所縁(生誕地は兵庫県と岡山県の諸説あり)の街道因幡街道(いなば街道(智頭往来(ちづ往来)))を北上です。途中の鳥取市河原町にある道の駅「清流茶屋かわはら」にて、小休止の為立ち寄る事にしました。駐車場に停車し何気なく周りの景色を見渡しながら降りたのですが、遥か川の向こうになんとお城があるではありませんか。たまたま横を通りかかった人に尋ねてみると、やはりお城で「河原城」と言うそうです。また新たな発見がありましたので、道の駅は止めて気儘に早速行く事にしました。模擬城にしてはなかなかの建屋で4階のフロアー内に資料館&物産などが整っていました。河原町のシンボルで現地の資料では別名「若鮎城」とも呼ばれる様ですが、正式名称は丸山城と言います。しかしこの名称は鳥取市内だけでも3か所に同名の城がありますので、やはり町名でもある河原城が通称と言う事になる様です。模擬城にはなりますが町の情報がぎっしり詰まった発信場所でもあり、郷の大パノラマを楽しめる天守閣でした。城の歴史は天正8年豊臣秀吉が鳥取城攻めで因幡地方にやって来た際に、陣を張ったのがこの山ですが、元々ここには建物としての城はなく、従って実在の城を復元したものではありません。また河原町(因幡国八上の郷)には、大国主命の八上姫(やがみ姫)とのロマンスや因幡(いなば)の白兎を助けた話等の伝説の地として知られています。見どころは天守閣の展望、各階資料、マジカルビジョン。アクセスはJR鳥取駅からJR因美線「河原」駅より徒歩約60分、鳥取駅からタクシーで約20分