久留里城跡 (千葉県君津市)
2014/03/17大多喜城から凡そ17Kmのところに次の目的地久留里城があります。大多喜での滞在時間は僅かでしたが千葉県に来て最初の天守を拝めました。現在13時ですが道中何があるか分かりませんので少し急ぎます。所要時間約50分。まもなく久留里城(君津市)の駐車場に到着です。駐車車両は2〜3台と少なく、まあ日祭日を外しての旅ですから当然と云えば当然ですが、んん〜閉館日の月曜日だったとはちょっと残念でした。因みに全国殆どのお城に携わる美術館や歴史博物館は月曜が休館です。駐車場から復元天守まで200m程の勾配を登城します。大袈裟な準備体操は必要ありませんが、足腰に軽いウォーミングアップや簡易の杖等を利用されるほうがいいと思います。私は普段から鍛えていますので必要ありませんでしたが、えらかった! やっとのことで登城しました。山頂には資料館や新井白石の銅像が設置されてあり、少し離れた小高い丘に天守が設けられています。生憎2月の豪雪で、一部破損したらしく中庭に入ることが出来ませんでした。しかし可愛い天守を見ることができました。沿革は、伝承では平将門の三男で東少輔頼胤(とうのしょうゆうよりたね)が浦田の妙見寺に参詣の際、夢の中でのお告げにより築城したと言われるようです。史実としての久留里城は、甲斐源氏の支族である上総武田氏の祖、武田信長が康正元(1455)年に上総守護代に任ぜられ、その翌年に真里谷と庁南(長南)の二城を築いた直後に築城されたと思われ、そして信長三男の信房に久留里城を与えたようです。この頃の久留里城は現在の久留里城の北方500mほどの峰続き上にありましたが、その後武田氏方の勝(すぐろ)真勝が城主のときに里見成義(実在に疑義があり、実際は実堯(さねたか)または義堯(よしたか)と思われる)により無血開城し里見氏の属城となったといわれています。アクセスはJR久留里線「久留里」駅より徒歩約25分。麓より登城徒歩約20分。駅から麓まではタクシーがお薦め。見どころは復元天守、資料館 新井白石像
大多喜城跡 (千葉県夷隅郡)
2013/03/17佐倉城跡を後にして房総半島の南下しつつ西南に位置する大多喜城を目指すことにしました。千葉県は30年前に浦安に来た程度で全く知らない土地なので新鮮味があって興味津々です。南下してから2時間程度で目的地に到着しました。大多喜城は平山城なので山城に比べる比較的登り易く、また成りは小規模でも復元された天守が存在するので城好きの人には感動ものでしょう。何故なら千葉県にお城あるの?と云う人が殆どで、期待はしていません。だから喜びもひとしおでしょう。沿革は大永元年(1521)に真里谷信清(まりやのぶきよ)が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされています。天文13年(1544)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われ、以後時茂、信茂、憲時(のりとき)の3代に渡って正木氏が支配して、上総国(古名かずさ国)東部支配の拠点とされました。しかし天正9年(1581)に里見義頼(よりよし)との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたようです。天正18年(1590)里見氏が惣無事令(そうぶ辞令、私闘を禁じた令)違反を理由に上総国は没収され、徳川家康に与えられると、家康配下の勇将の本多忠勝が城主となり大多喜藩10万石が成立しました。当地ではこの本多忠勝を大河ドラマへの誘致運動として幟等を揚げて取り組んでいます。余談ですが昨年訪問した月山富田城跡(島根県)でも山中鹿之助の誘致の幟を見た覚えがあります。アクセスは「いすみ鉄道」いすみ線「大多喜」駅徒歩約15分。見どころは復元天守と博物館
佐倉城跡 (千葉県佐倉市)
2014/03/17久しぶりに旅に出ました。昨年の10月以来で少し感覚を取り戻せるか心配でしたが、難なく行動に移れました。今回目指すのは、このホームページの関東方面で今まで空白地帯だった、千葉県・埼玉県を中心に当地を訪問することにしました。出発は3/17の早朝3時、名古屋からは360〜380Kmのちょっとした長旅です。独り旅の醍醐味とも云うべき時間帯をひたすら走り続けます。ただ、残念な事を言いますと平日の高速道は大型が多くてPAも一杯です。まあ、日本経済の主流を担っている物流社会ですから仕方がないでね!本題に戻りましょう。いよいよ目的の佐倉城に近づいてきました。また余談ですが、今更と思いますがナビは本当に便利ですね、全く地図を見なくても行きたい場所に行ける。素晴らしいの一言です。しかし何処を走って来たのか執筆をする際思い出せないのが難題です。やっと現地に着きました所要時間に7時間掛かりました。佐倉城跡は現在公園として利用されており、石を使っていない為遺跡より遺構等が残っている程度で広大な敷地には春を待つ桜並木や観光スポットとしての歴史民族博物館が隣接しています。沿革は慶長15年(1610)千葉氏から土井利勝によって築城されました。その後、堀田氏が城主となり安定した佐倉藩が誕生しました。明治維新の後、廃城令により建物は取り壊され、更にその後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった為に、佐倉城の名残も消し去られてしまいました。昭和37年(1962)3月28日市の史跡に指定され、現在は跡地を佐倉城址公園として整備され日本百名城にも登録されています。アクセスは京成電鉄京成本線「京成佐倉」駅徒歩約20分。JR総武本線「佐倉」駅徒歩25分。見どころは土塁、深い空堀、水堀等の遺構や歴史民族博物館



千葉城跡 (千葉県千葉市)
2014/03/17千葉県に来て最後の訪問先は千葉城(猪鼻城(いのはな城)です。久留里城から千葉市内まで50Kmの道程ですが、2時間近く掛かるでしょう。案の定16時を過ぎてしまいました。千葉城は千葉市内中央区に郷土博物館として設けられ、年中無休として開放されていますが、営業時間は16時30までと運悪く入館できませんでした。郷土博物館は復興天守として近世の城郭を模擬したものです。従って千葉常重氏の時代背景からは平安時代若しくは鎌倉初期の中世の館が恐らく妥当だと思われます。それは兎も角、城としての建物を見る事ができたのは唯一の喜びです。沿革は、千葉常胤(つねたね)の父千葉常重が亥鼻(いのはな)周辺に舘を築いたのが始まりです。常重が築いた舘は常重の時代まで、千葉氏は周辺の土豪の圧迫により千葉郡周辺の本所を守ることに汲々としていましたが、常胤の代になって源頼朝の呼応に従い、又上総氏(かずさ氏)等の周辺土豪がいなくなった為、千葉氏は亥鼻を本拠に下総国(しもふさ国)及び上総国(かずさ国)の支配権を確立しました。その後、1455年に千葉氏が本拠地を本佐倉城周辺(酒々井町(しすい町)、佐倉市)に移すまで亥鼻が千葉氏の本拠地となっていました。戦国時代に千葉氏と争ってこの地域に進出して来た里見氏が本佐倉城の千葉氏に精神的圧迫をかけるために亥鼻の舘跡地に出城を築いたとも言われていますが詳細は不明です。豆知識として千葉常胤は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将で千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖と言われています。アクセスはJR総武線「千葉」駅より徒歩約7分。見どころは天守郷土博物館、亥鼻公園(桜祭り)、千葉常胤の像
川越城跡 (埼玉県川越市)
この更新用文章を記載している本日は2014/04/15です。埼玉県の更新準備は千葉県を訪ねその足で埼玉県を訪問していたにも関わらず、彼此一ヶ月近く遅くなってしまいました。実際の訪問した日は2014/03/18で、前日の17日に千葉市内で一泊して朝早7:00ホテルの朝食サービスも取らずに川越を目指しました。しかし流石に首都圏で、千葉市内の交通渋滞等で大幅に時間を費やしてしまい、川越市内に着いたのは10時過ぎと後の行程を考えると大慌てでした。まあ旅行には当然空費は起こりますので仕方がありません。漸く川越城に着きました。残念ながらお城と言うには土塁、堀、遺構等の遺跡が少ないため、雰囲気的に申し上げますと、本丸御殿は館で大書院のように思えました。沿革は長禄元年(1457)古河公方足利氏に対する備えとして、扇谷上杉氏(おうぎがやつ上杉氏)の重臣太田道真(太田どうしん)とその子の太田道灌(太田どうかん)により築かれました。以降、扇谷上杉氏の主要な城の一つとなりましたが、天文6年(1537)に北条氏綱に攻略され、以降は北条氏の武蔵国支配の拠点となりました。そして天正18年(1590)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)まで北条氏の主城として存在します。小田原の役では豊臣方の前田利家の軍勢に攻められ落城し、徳川家康が関東に入部すると、譜代家臣の酒井重忠が1万石で入城し、川越藩が成立しました。豆知識として太田道灌は室町時代後期の武将で、武蔵守護代の扇谷上杉家の家宰((かさい)一門の家長に代わる職責)で、摂津源氏の流れを汲む太田氏です。太田道灌の諱((い)又は真名(まな)現在の実名の意)は太田資長(太田すけなが)と言い、その父の太田道真の諱は資清(すけきよ)言います。道灌は家宰職を継いで享徳の乱や長尾景春の乱で活躍しました。江戸城の築いた事で有名です。アクセスは東武東上線、JR川越線「川越」駅及び西武新宿線「本川越」駅から東武バス「神明町車庫行き」で10分「札の辻」下車、徒歩約8分。見どころは本丸御殿、川越市立博物館

忍城跡 (埼玉県行田市)
2014/03/18川越城との出会いも束の間でした。続いての訪問先は行田市にある最近映画化等でも注目を浴びるようになった、和田竜の歴史小説「のぼうの城」こと忍城(おし城)です。忍城は関東最大勢力北条氏の支城であった為に、天下統一を目論む豊臣秀吉にとっては、小田原城攻略の先駆けに「取るに足らんが」と豪語し、石田三成と2万の大軍を差し向け日本史上三大の水攻めを仕掛けました。この物語が映画化になり今や埼玉の目玉城になっています。模擬城も設けられていますので、物語を知っている方にとっては往時の事を想像しながら散策すれば、ちょっとした庭園にも親しみを憶える事と思います。沿革は文明10年(1478)地元の豪族であった成田正等(成田しょうとう)とその養子の顕泰(あきやす)の父子が、この地を支配していた扇谷上杉家(おうぎがやつ上杉家)に属する忍一族を滅ぼし、築城したと云われています。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の際、当時の城主成田氏長(成田うじなが)は小田原城に籠城します。それは従兄弟の成田長親を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもったのです。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家(ながつかまさいえ)、それに真田昌幸や信繁(のぶしげ)親子らも加わっていました。結末は歴史資料等や映画観賞で「のぼう」の世界を堪能してみて下さい。因みに「のぼう」とは「木偶(でく)の坊」の由来で木偶とは「くぐつ」と言う木彫りの操り人形のことです。アクセスは秩父鉄道秩父本線「行田市」駅下車、徒歩約15分。見どころは模擬天守、庭園、行田市郷土博物館の鐘楼


騎西城跡 (埼玉県加須市)
2014/03/18次の訪問地の騎西城は、築城不明というあまりメジャーなお城ではありませんが、埼玉県で忍城同様に模擬城のある遺跡地です。本来の目的は日本古来の建物や城跡等ですが、何もない遺構より模擬城があることでその時代を想像したり、思考心を抱かせてくれたりするのです。従って一概に模擬城を無下にはできません。模擬城天守は資料館として使われ、隣接した市民図書館に訪れる人の憩いの場所になっています。埼玉県には、他にも天守らしき建物が秩父郡長瀞町(ながとろ町)に天神山城があるそうです。また機会があれば行ってみたいと思います。騎西城の歴史は関東公方(関東くぼう)の執事上杉家と足利将軍家の対立で、鎌倉から下総古河に逃れた足利成氏(足利しげうじ)が、康正元年(1455)に庁鼻和性順(こばなわしょうじゅん、上杉憲信)と長尾景仲が守る騎西城を攻略したと記録されるのが初見のようです。その後は古河公方(こが公方)の前線基地となりますが、永禄6年(1563)武蔵松山城の救援に間に合わなかった上杉輝虎に小田助三郎の守る騎西城は攻められ落城しました。天正2年(1574)の第三次関宿(せきやど)合戦では、簗田持助(やなだもちすけ)の関宿城が北条氏政の大軍に包囲されますが、それを助けるために布陣した上杉謙信は、この騎西城や菖蒲城(現埼玉県久喜市)などの城下を焼討ちにしました。寛永9年(1632)になると大久保忠職(大久保たただもと)が美濃加納城(みのかのう城、現岐阜県岐阜市)へ移封となり廃城となりました。アクセスは東北自動車道「加須」ICより車約15分。東武伊勢崎線「加須」駅、JR高崎線「鴻巣」駅よりバス。見どころは模擬城、初春の梅と桜

鉢形城跡 (埼玉県大里郡)
2014/03/18の午後3時40分騎西城から2時間位で、鉢形城公園に到着しました。と云ってもご覧になられている方々からすれば場所がよく分からないと思います。地名で説明しますと加須市騎西から大里郡寄居町に移動したことになり、場所は騎西城から西方で長瀞や秩父方面で約15Km程度の処にあります。鉢形城跡は、天守はもとより城郭等も残っていませんが広大な縄張り(敷地)に数々の曲輪(区画)や土塁が点在しています。恐らく日本全国にもこのような場所は沢山あると思いますが、私の所見を述べると「成るほど」と唸るぐらいです。沿革は文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家臣長尾影春が築城したと伝えられています。その後この地域の豪族藤田康邦に婿入りした小田原の北条氏康が四男の、氏邦が整備拡充し現在の大きさになりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。そして天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めの際開城となりました。昭和7年(1932)4月19日 遺構の残存状況がきわめて良好な考古学資料であり、また関東地方の戦国時代の状況を示す文献資料も豊富に残されていることから、「鉢形城跡」として国の史跡に指定されました。 くわえ平成18年(2006)4月6日には 18番目の日本百名城として選定されました。アクセスはJR八高線、秩父鉄道、東武東上線、「寄居駅」下車より徒歩約25分。寄居駅から「東秩父村営バス」で和紙の里行き「鉢形城歴史館前」下車より徒歩約5分。見どころは復元四脚門、巨大空堀、歴史館
千葉県君津市 久留里城跡