岩手県盛岡市 盛岡城跡
仙台城跡 (宮城県仙台市)
2013/04/11いよいよ東北は宮城県「杜の都」仙台です。仙台城(別名青葉城)は東北屈指の「東北大学」のキャンパスに隣接している為、当日は入学式だったのか新入生を勧誘する倶楽部の幟がたくさん上がっていました。車を本丸跡広場の西側駐車場(有料)に停め、「仙台城見聞館」では係の方にとても親切にガイダンスして頂きました。伊達正宗は関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代(せんだい)に居城を移しました。慶長5年12月24(1601/1/28)に青葉山に登って縄張りを始め、地名を千代から仙台と書き改めました。彼が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はありましたが天守(天守閣)はなかった様です。この事は時代の流行には合いませんでしたが、結果的に仙台城は「日本の最も勝れ、又最も堅固なる城の一つ」と言わしめるほど、この時代に比類ない堅城だった様です。実際徳川家康の居城江戸城に次いで2万坪と言う規模を誇る城だったそうです。今回の訪問では残念ながら大手門と隅櫓をカメラに収めることは出来ませんでしたが、大手門と隅櫓以外にも見聞するところがありますので是非訪ねて見ては如何でしょうか。名曲「荒城の月」の作曲者滝廉太郎が有名で、同曲作詞家の土居晩翠(どい若しくは、つちいばんすい)はあまり知られていない様ですが、彼の故郷の仙台城を舞台に歌ったと云われています。仙台市内には「晩翠通り」と言うのもありますし、「荒城の月」の歌詞で「千代の松枝・・」の千代は仙台からもじったと言う説もあります。詳細は不明ですが、この曲のモデルとされている城を紹介しておきます。豊後竹田(岡城)滝廉太郎、富山(富山城址)滝廉太郎、岩手(九戸城址)土居晩翠、会津若松(鶴ヶ城)土居晩翠夫妻。見どころは仙台城見聞館、伊達政宗像、石垣城壁等の遺構。アクセスはJR「仙台駅」よりバス「仙台城跡南」まで約25分、東北自動車道「宮城IC」から約15分









多賀城跡 (宮城県多賀城市)
仙台市内から約30分で東北方角にある多賀城市にやってきました。此処は今まで訪問した城跡から比べるとかなり古く、時代背景から見ると奈良平安時代だと思います。東北歴史博物館の資料に基づくと多賀城は天平9年(737)に「多賀柵」(たがじょうさく)として初めて『続日本紀』に登場しています。柵と城は共「き」と読み、違いの柵は城より防備的に弱い形態の様です。宝亀11年(780)には「多賀城」と記され、その後資料には城と表されています。築城というのか創建については多賀城碑には724年に大野東人(おおののあずまびと)によって創建され、762年藤原朝?(あさかり)が修造した事が刻まれおり、多賀城改修の記念碑と考えられています。多賀城跡の状態は奈良古い遺跡を御存知かと思いますが、画像の様に殆ど建築建造物はなく柱の土台石や石碑が残っているだけです。多賀城の当時の役割目的は陸奥国(福島、宮城、岩手)と出羽国(山形、秋田)の府(朝廷の広域行政府)としての役割と蝦夷征討(えみしせいとう)政策の中心拠点でした。また多賀城は奈良・平安の都から赴任した人々が周辺の美しい自然を歌に詠みこんだ事から、歌枕の多いことで知られています。大伴家持(万葉集)西行法師(三家集)最後に俳人松尾芭蕉もこの地を訪れ、日本3大古碑(群馬の多胡碑、栃木の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ))の一つの多賀城碑(別名壺碑つぼのいしぶみ)から詩を詠み「奥の細道」に書きつけ、この多賀城にある歌枕の地「野田の玉川」「末の松山」「おもわくの橋」「沖の井(石)」を巡っています。この事からも芭蕉の心理と感慨の深さが窺えます。見どころは多賀城跡、多賀城碑覆屋、東北歴史博物館(国府多賀城駅すぐ)。アクセスはJR東北本線「国府多賀城駅」より徒歩約15分
立石寺(山寺) (山形県山形市)
2013/04/11一路山形市の山形城跡に向かって多賀城跡を後にしました。行程は笹谷峠経由で約1時間30分位です。同行の旧友が「折角山形に来たのだから途中に避けて通る訳にいかない場所がある。一度は見るなり眺めるなりして行け!」と云われ、無理やり連れて行かれました。なんと山の峨々たる山壁の淵に寺があちらこちらにあるではありませんか。そこは四寺廻廊(しじかいろう)の一つ岩手平泉の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、宮城松島の瑞巌寺(ずいがんじ)と並んで巡礼寺とも修行寺とも云わる寺で、松尾芭蕉が「閑さや岩にしみいる蝉の声」と読んだ有名な句はこの寺での事であり、曾良(そら)の随行日記には「山寺や・・」と記されている事から、通称山寺(やまでら)と呼ばれる立石寺(りっしゃくじ)でした。時間があれば登るつもりでしたが、目的の山形城跡の閉館が迫っているので残念しました。これは事実ですが、実に完璧な言い訳です。旧友曰く登り坂は半端ではなく修行の為の寺なのですから、それなりの覚悟が必要であります。訪れる時は十分時間の余裕と体力をもって行かれる事をお勧めします。
山形城跡 (山形県山形市)
山形城に着いたのは、途中「立石寺(通称山寺)」に立ち寄った為、15時57分かなりぎりぎりの入館になりました。そのせいか観光客も疎らで容易に見学が出来ました。二の丸大手門を入ると正面に凛々しい最上義光(もがみよしあき)の騎馬像を見ることができます。沿革は最上氏の初代斯波兼頼(しばかねより)は、延文元年(1356)にこの地に入部して居城を構えました。その後子孫が地名の最上を名乗り姓としたと云われています。最上氏は清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲み兼頼から数えて11代目となる最上義光は関ヶ原合戦の地方戦として上杉景勝(かげかつ)、直江兼継の軍勢と長谷堂で戦い上杉軍を撤兵させ、また伊達正宗も不仲説のある実母義姫(よし姫)を助ける為援軍をだしました。最上氏は1622年に転封となり、その後は徳川譜代大名が引き継ぐことになります。プチコメントとしてお城の写真へは外堀から大手門が得策です。見どころは最上義光歴史館、霞城公園、二ノ丸大手門(画像)最上義光騎馬像。アクセス はJR奥羽本線「山形駅」西口から徒歩約8分、駅東口から徒歩12分
上山城 (山形県上山市)
山形県最後に訪問した上山城(かみのやま城、別名月岡城)は100名城に登録されていない事もあり、後回しになってしまいましたが、なかなかどうして立派な天守を構えていました。上山城の歴史は上山に天童氏(最上氏庶流)の一門上山氏が城を持っていた事に始まり、1508年に伊達氏がこの城を攻め落とし城主上山義房(よしふさ)は滅亡しましたが、その子武衛義忠(ぶえいよしただ)が城を奪還しました。義忠によって改めて築城された平山城が現在の上山城です。以後城主は武衛義節、そしてその子上山満兼(みつかね)と継承しました。この頃天童氏は主家最上義光と次第に対立し、満兼も天童一門として義光に従う事を拒否し伊達氏とともに山形を攻めました。しかし1580年義光は里見民部(そとみみんぶ)を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主満兼は討死し代わって里見民部が上山城主になりました。江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、城主を務める氏族がめまぐるしく変わりますが、上山藩自体は幕末まで存続しました。戊辰戦争では幕臣として奥羽越列藩同盟に参加するなど積極的に加勢したものの、北越戦争では劣勢となり降伏恭順(降伏し命令に従う意味)しました。そして最終的に統治することになった城主は藤井松平(まつだいら)です。余談になりますが、幕府から流罪となった「たくわん」で有名な沢庵和尚の流罪先となった上山城は、歌人でもあった沢庵和尚の所縁の地でもあります。見どころは模擬天守、月岡公園、郷土歴史資料館。アクセスはJR奥羽本線「かみのやま温泉駅」徒歩約10分
久保田城跡 (秋田県秋田市)
2013/04/13やや遅めの出発でいざ秋田県へ。 何かかっこいい云い方ですが今週の4/8月曜日からお世話になっている旧友の運転での移動です。秋田まで高速道経由で距離330q、約3時間強の行程でひたすら久保田城を目指します。秋田市内に到着したのは12時頃でした。山形県同様初めての土地でまったく分かりませんが、いいナビゲーター(?)がいるので楽でした。早速ですが久保田城は慶長7年(1602)出羽国(現在の山形県と秋田県域)へ国替えとなった佐竹氏20万5千8百石の居城で、複数の廓を備えた平山城です。築城は慶長八年(1603)5月に開始され、翌年の8月には初代藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城(現在の土崎湊)は破棄されました。しかし義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃といわれています。久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城である事と、天守(天守閣)をはじめから造らなかった事が挙げられます。天守を造らなかったのは国替えによる財政事情や、幕府への軍役奉仕や徳川幕府への遠慮などが原因と考えられています。現在の久保田城跡は千秋公園(せんしゅう公園)として整備され市民の憩いの場として、また桜の名所としても親しまれています。見どころは、御隅櫓、千秋公園、佐竹資料館。アクセスはJR奥羽本線「秋田駅」徒歩15分
五城目城跡 (秋田県南秋田郡)
久保田城(秋田市)から青森県の弘前城を目指し、道中急ぐ中またまた思いがけない発見がありました。国道285号線男鹿半島(八郎潟)より大館市方向に入った所付近だと思いますが、北面の山頂にお城見つけ慌てて近くまで行きました。残念ながら後ろ髪を引かれる思いで写真を撮るだけに留めました。何故!と聞かれると、登頂するには弘前城でのスタンプ取得時間に間に合わなかったからです。五城目城跡(別名砂沢城)の詳細は五城目町の森山にあった安土桃山時代から江戸時代の初めにかけての山城(やまじろ)で、天正年間の安東氏(秋田氏)の内紛(湊合戦)後に五城目(五十目)地域を支配した藤原内記秀盛の居城となりました。藤原氏はこののち五十目氏を称するようになり、市や座を保護し五城目の基礎をつくった領主とされています。城跡には帯郭(郭)跡が残り、また発掘調査では整地や盛地跡など柵列跡が確認されたほか、森山の麓に城主の屋敷跡も確認されました。この城は秋田氏の常陸国宍戸(ひたち、現在の茨城県)への転封に伴い破却されました。本来の五城目城は天守がなかった様ですが、現在城跡のある森山中腹には模擬天守が建っており内部は森林資料館になっています。豆知識は五城目城周辺約8`以内に20以上の城跡があるそうです。見どころは模擬天守以外登頂出来なかった為不明。アクセスは秋田自動車道、五城目八郎潟ICより約5分
七戸城跡・奥入瀬渓流 (青森県上北郡)
先日は弘前城になんと15分前滑り込みし、スタンプをゲットしました。もし五城目城を登頂していれば間違いなく涙涙だったでしょう。まあ東北は広いので時間も限られているのでいたしかたありません。2013/04/14は青森八戸市の根城に向います。昨日は青森市内に宿を取ったので、多少時間の余裕がありそうなので少し寄り道をしていく事にしました。行先は十和田湖を源にした奥入瀬川渓流(おいらせ川渓流)ですが、途中思いもしない城跡の道路標識を見つけ、またまた寄り道の寄り道をする事にしました。標識より僅か10分くらいで目的地に着き我ながらの調査開始です。七戸城跡の碑を見つけ漸く分かりました。歴史は南北朝時代の南部政長(なんぶまさなが)の築城と伝えられていますが、14世紀後半の南部政光(まさみつ)が築城されたと考えられています。天正19年(1591)城主七戸家国は九戸政実(くのへまさざね)の乱に加担して滅び、翌天正20年(1592年)「諸城破却書上」により破却されていましが、津軽に対する配慮から五戸町浅水城主南直勝に名跡を継がせ、その子七戸隼人直時を七戸2000石の城主としました。寛文4年に、27代南部利直の5男重信(七戸城に封じられていた)が南部本家29代を継いだため、藩の直轄地となりました。見るところ跡地は石碑だけで他は残雪の残る公園として整地されていました。七戸城を後に今度は、本来の寄り道奥入瀬へと向かいました。まだ側道に雪が積った清流の川沿いを十和田湖方向(奥入瀬はこの登り方向のドライブがお勧めです)に走行していると温泉郷が疎らに見え隠れし、そのうち渓流の流れが見えて来ました。残雪景色なのでサプライズとまでは言えませんでしたが、紅葉季はきっと素晴らし景観が見られると思います。見どころは秋の七戸城跡石碑、十和田湖周辺、温泉郷、八甲田山系。アクセスは青森市より国道4号線で南下して陸羽街道か国道394号線
盛岡城跡 (岩手県盛岡市)
東北最後に訪れたのが岩手県の盛岡城です。約1週間旧友にお世話になった東北6県の旅が終わろうとしています。2013/04/14昼過ぎに到着し感動と感慨無量とすこし大袈裟な表現ですが達成感が漲ってきました。さてこの盛岡城の築城は1590年代に盛岡藩初代藩主南部信直(のぶなお)によって開始された。しかし自然災害に多く見舞われ実際に全城が完成したのは、寛永10年(1633)3代藩主南部重直(しげなお)の時です。2代藩主利直(としなお)の時には総石垣の城としてほぼ完成し、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め不来方(こずかた)から盛岡に改めました。尚、利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧淡路丸大明神)の社宝として崇敬されています。こうして父子3代によって豊臣、徳川と渡り築いた城が盛岡城です。現在、主要な建造物の遺構は残っていませんが、花崗岩での石垣は東北の石垣造り3名城(会津若松城、白河小峰城)の一つに入ります。一応スタンプラリーに関しての東北城の旅は終わりですが、まだまだ発見がありそうなので機会を作って再度チャレンジしたいと思っています。何分東北は広大であります。見どころは石垣、盛岡城跡公園、盛岡文化館。アクセスはJR「盛岡駅」下車、徒歩約20分、東北自動車道 「盛岡IC」より約20分

「石津の戦い」の現地に行ってきました。掲載ページへ
根城跡 (青森県八戸市)
いよいよ八戸の根城を目指します。旅にはいろいろな発見が付き物ですが、ゆっくりしたいのですが先が閊えているのでやむを得ないです。十和田方面から1時間位で現地八戸市に到着しました。根城(ね城)は八戸市博物館に隣接している広大な敷地に史跡があり、一見佐賀県の吉野ケ里の如く古代遺跡の様に見えます。沿革は陸奥国司北畠顕家(きたばたけあきいえ)の国代(国司代官)南部又次郎師行(もろゆき)が、その根拠地として建武元年(1334)糖部郡八戸石懸村八森(現八戸市)に築いたもので、奥州蕩平(とうへい、平定と意味)の根の城と顕家がその完成を祝い根城と呼称したと伝えられていますが、公称は八戸城だったようです。馬淵川州の下流の右岸標高約20mの台地に築かれた平城で、本丸、中館、東善寺館、岡前館、沢里館の5郭は其々堀をめぐらし、半独立性を保ちながら一城を形成し、中世の典型的な築城形態を残しています。師行は根城南部氏4代で、根城は北奥の南朝方一大拠点となり、南部師行から8代政光まで5代に渡り、優勢な足利氏に屈せず南朝方に忠節を尽くしました。天正18年(1590)豊臣秀吉の諸城破却令によって壊された事になっていますが、住居としての館は残され寛永4年(1627)南部直栄が遠野に移封後完全に壊されました。豆知識は石津の戦いで戦死した北畠顕家と南部師行の供養塔が堺市西区の石津川に架かる旧紀州街道の太陽橋南詰めに建てられています。これはビッグサプライズで、東北在住の旧友が幼き頃通い続けた幼稚園のすぐそばだったのです。いつの日かこの太陽橋近隣を訪問し画像を紹介出来る日があると思います。見どころは八戸市博物館。アクセスはJR八戸駅より徒歩約15分、八戸自動車道八戸ICから約10分