佐賀県唐津市 唐津城跡よりの遠望
府内城跡 (大分県大分市)
府内城(ふない城、別名大分城跡)という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことに因みます。府内には古代豊後国の国衙(こくが(今の役所の様な所))が置かれ、鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後国の守護職・守大名であった大友氏の拠点でありました。大友氏失脚後は石田光成の妹婿福原直高が2代城主として築城を開始しますが、秀吉の死後徳川家康から6万石減封され元の臼杵城へ転封されました。入れ替わりに府内代官の早川長政が入城させられました。しかし関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城します。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始し、その後次々城代の不正・廃絶の為、臼杵藩主稲葉信通が城代となり、1658年には大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城し、以後明治維新まで大給松平氏が居城しました。見どころは県史跡櫓、天守櫓址。アクセスはJR日豊本線「大分駅」より徒歩約15分

岡城跡 (大分県竹田市)
文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したのが起源だそうです。このお城は山城で南北朝時代の建武元年(1334)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされています。耳川の戦(1586)で衰退した大友氏を打つべく快進撃を続けていた島津軍を、岡城の志賀親次の指揮の元、再三にわたりこの島津軍を撃退した。この功績で秀吉から褒状を貰う事になりましたが、文禄の役で大友吉統が大失態を起こし所領を没収された事により、重臣の志賀親次も岡城を去りました。文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施しました。その後2代久盛、3代久清と造営していま。お城は325mの岩盤台地の上に築かれてはいますが、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きています。「荒城の月」作曲者である瀧廉太郎氏は、幼少期を城下町の竹田市で過ごした事から、この岡城にて曲のイメージを得たと謂われており、城跡には廉太郎氏の銅像が山並みを遠望出来る処に建てられています。私が訪れた時は小雨交じりの天気でしたが、桜が満開で城壁とのコントラストが非常に鮮やかでした。見どころは城壁、崖下の景観、四季の花、滝廉太郎銅像、岡城跡巻物等、また城下の竹田市は歴史的町並みも有り散策にも良いと思います。アクセスはJR豊肥本線「豊後竹田駅」よりバスで緒方行「岡城入口」下車後徒歩約10分タクシー利用680円


臼杵城跡 (大分県臼杵市)
駅に着いたらいきなりの雨で、仕方なくコンビニで傘を購入しました。さて、臼杵城(うすき城)は戦国時代の永禄5年(1562)府内大友館より拠点を移した大友宗麟により、臼杵湾に浮かぶ丹生島(にゅう島)に築かれた平山城(海城)です。大友氏の改易(解任の意)後は福原直高、太田一吉を経て関ヶ原の戦いの後、慶長5年(1600)に美濃国郡上八幡より5万石で稲葉貞通が入封しました。以降明治維新まで稲葉氏15代の居城となっていました。お城は3層4階の天守と31基の櫓が上げられた、総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった様です。廃藩後は天守以下建物の一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられました。見どころは大門櫓、鐘楼。城下町は歴史的景観地区があり、散策にも良いと思います。アクセスはJR日豊本線「臼杵駅」下車徒歩約3分
天ヶ城 (宮崎県宮崎市)
宮崎駅のバス停で市内観光の看板を見つけ眺めているとお城を発見。しかも全く知らない新たな情報に心躍らせ「よし!行こう」と決めバスに乗り込みました。約42分ながいなあと思いつつ、やっと着いたと思ったらそこから登城が必要だったので、そこからさらに徒歩約25分、もうバテバテで天ヶ城に到着しました。お城に付いた時は何とも表現のしようがない複雑な心境の達成感を感じました。さてその天ヶ城ですが慶長5年(1600)第17代島津家当主島津義弘は、関ヶ原の合戦に敗北し日向細島(ひゅうがほそじま)を経て帰国途中に八代村(現国富町)に滞在しました。天下分け目の関ヶ原の戦で、徳川家康が勝利した事が全国に知れ渡ると、島津氏と長年戦ってきた伊東氏の重臣で清武城主の稲津掃部介は、島津氏を滅ぼし伊東氏の旧領地を取り戻すのはこの期以外にはないと考え、兵を率いて宮崎を平定北進し佐土原城下にまで迫りました。そして義弘が滞在している八代村に向かって進軍させました。それに対し島津領内の近傍の領主達は取るものも取り敢えず、八代村へ兵を進め辛うじて稲津の兵を食い止めると、義弘は兵数十名を引き連れ八代村を脱出し難を逃れ鹿児島にたどり着く事が出来ました。この事を経験した島津義弘は伊東市に備える国境警備の必要性を痛感し、久津良名((くつらみょう)現宮崎市高岡町)に城を築き「天ヶ城」と命名しました。そして島津氏と関係の深かった地域から多数の武士を移り住まわせ、比志島紀伊守国貞を初代地頭に任命し国境警備の要としました。これが「高岡郷」の創設とされ、廃城となった後には武士達も山を下りこの地に住み着いたそうです。見どころは春には昇り口から頂上まで桜一色になり、資料館や公園があります。アクセスはJR「宮崎駅」からバス「高岡小入口」まで42分720円、徒歩約25分の坂道
飫肥城址 (宮崎県日南市)
列車の旅なので乗り継ぎが問題で、やっとの思いで飫肥に到着しました。飫肥城(おび城)は宇佐八幡宮の神官だった土持氏が、日向で武士団として勢力を伸ばし南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていたそうです。室町時代末期の長禄2年(1458)になると、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が鎌倉時代より日向で勢いを増していた伊東氏の勢力に備えて、志布志城主の島津氏の一族だった新納忠続を飫肥城に入城させました。伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだが、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も飫肥侵攻が断続的に続けられ1567年に飫肥城を奪取した。伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし伊東氏は木崎原の戦(1572)を期に没落すると、日向国全土を島津氏が統治し飫肥も再び島津氏が復権した。伊東氏の没落によって島津氏との争いが終わったかに思われましたが、伊東祐兵は羽柴秀吉に仕え九州征伐で活躍した戦功により、再び飫肥を取り返し大名として復活を成し遂げました。その後廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏が領する地でありました。因みに江戸時代伊東氏は豊臣系の外様大名と言う地位ながらも、飫肥の地で家名を全う出来たのは、ひとえに関ヶ原の合戦で東軍側についた数少ない九州大名だったからかもしれません。祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣家大名として飫肥城主になった1587年までは103年にも及びます。これだけの長期に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた例は、日本の戦史において稀有な事の様です。あまり知られていない様なので、少し詳細を書かせて頂きました。見どころは飫肥城歴史資料館、小村寿太郎館、豫章館、桜の風情など。アクセスはJR日南線「飫肥駅」より徒歩約15分
肥薩線 (宮崎県〜熊本県境)
兎角公共の交通手段で且つ低料金での移動には時間が掛かかってしまいます。飫肥駅より16:00頃発ち目的地の人吉駅には着けず、都城・隼人・吉松の何れかの地で間違いなく泊まれる所隼人で宿泊しました。ホテルの部屋番号はなんと私の誕生日と同じ4桁で、ひょっとして何かいい事があるかもと思いつつ床に着きましたが、翌朝も何事もなく朝1番隼人駅を7:06出発、吉松駅に8:12到着し、1時間の時間調整後9:06人吉に向け出発しました。そこから乗車時間約1時間の行程だったのですが、いい事があったのです!吉松駅から人吉駅間でなんと日本三大車窓の所謂矢岳超えの眺望が出来たのです。そこには其の車窓は常に存在しているとは言え何も知らなかった私にとって、天気にも恵まれ又もし夜間の移動を決行していたと思えば、矢張りアメージングとしか言いようのない出来事でした。残念ながら画像では全くと言ってよい程、その車窓のスケールや素晴らしさは表現出来ていませんが、真の幸せ「真幸駅(まさき駅)」から「矢岳(やたけ駅)」間の車窓からの情景です。いや素晴らし山景を見せて頂きました。また次の大畑駅(おばこ駅)ではループ&スイッチバックも経験出来ました。列車ファンならずともローカル線ならではの車窓や山岳鉄道に堪能しながら人吉駅に着いたのは、10:20いよいよ人吉城です。
人吉城跡 (熊本県人吉市)
人吉城は鎌倉時代に源頼朝の命で遠江国相良庄を出身とする相良長頼により修築されたと伝えられています。豊臣秀吉の九州統一後の天正17(1589)20代当主相良長毎(さがらながつね)が豊後から石工を招き、人吉城を石垣づくりの城として改修しました。途中度々中断されましたが寛永16年(1639)になり、漸く現在の石垣に近い吉城の殆どが出来あがったそうです。人吉城は2度の大火あったことから御舘北側の石垣が「はね出し」(武者返し)という工法で防火のため造られました。この工法は、函館五稜郭、鶴岡城や江戸湾台場など日本の城で数例みられる西洋式の石垣です。ここで相良氏について少し紹介します。もともと静岡県牧之原市出身で人吉庄にやってきて地頭になったのですが、室町時代には領土拡大の為薩摩、日向に兵をさし向けました。11代長続が球磨郡内を統一し12代為続が八代・豊福を手に入れるなど着実に戦国大名の階段を上っていったのです。しかし16代義滋の時天正9年(1581)水俣合戦で島津義久に敗れ、領地の芦北・八代を失い、秀吉の九州征伐にも敗れ球磨郡だけの領地となります。その後の相良氏は世渡りを上手に歩んで来たことが明治4年(1871)廃藩置県まで、この球磨郡の領主・知事を務めました。見どころは人吉歴史観、多門櫓北側長塀の桜並木、永国寺(幽霊寺)近隣800m。アクセスはJR肥薩線「人吉駅」下車より徒歩約15分
熊本城 (熊本県熊本市)
熊本に向かう為人吉駅で時間待ちをしていると臨時列車のSLが入場してきました。全く予期せぬ出来事でした。昨日の肥薩線でのアメージングな出来事の続きかもしれません。 でも出発は14時台だったので、SLに乗車してしまうと熊本城の拝観時間に間に合いません。後ろ髪を引かれる思いで人吉を後にしました。このSL画像はトップページに貼り付けてあります。熊本駅に到着したのが14時頃だったのと雨が降っていたので、タクシーで熊本城へ向かいました。矢張り人気がある城です。雨の中でも沢山の来観者と、多国籍の言葉が飛び交っていました。そんな現代の熊本城ですが、前進は子鹿木氏(かのこぎ氏)が茶臼山に築城した隈本城で、現在の黒板の壁が印象的な熊本城は慶長12年(1607)に加藤清正によって築かれたものです。加藤清正は完成の4年後に没し忠広が継後を継ぎます。その後改易になり替わって小倉から細川忠利が入城し、11代に渡り城主を勤め上げました。熊本城の真価を天下に知らしめたのは明治10年(1877)の西南戦争の時、西郷隆盛率いる西郷軍が明治政府に対して蜂起し、政府軍4000名が守る熊本城を攻撃しました。簡単に落とせると高を括っていた西郷軍は、城には容易に近づく事さえ出来ませんでした。熊本城の戦禍は殆ど西南戦争で受けたもので、その戦いの凄まじさが石垣等に残っています。また城内で起こった不審火で大小天守や本丸御殿も焼失しましたが、平成20年に復元されています。見どころは歴史資料館、本丸御殿、宇土櫓、石垣、桜景観、地下通路など。アクセスはJR鹿児島本線「熊本駅」より熊本市電で約10分「熊本城前」下車、 徒歩約10分
平戸城 (長崎県平戸市)
前日は雨も降っていたので宿泊は佐賀駅に宿泊しました。翌朝は4:30起きでターゲットは在来線も含めて時間が掛かる平戸城にしました。5:40佐賀発佐世保行きで先ず無難なスタートを切りました。佐世保には7:26着で乗り継ぎに松浦鉄道8:08発で平戸駅(たびら平戸口)に9:40到着、なんと4時間もかかりました。平戸城の歴史は下松浦党の棟梁(頭領)である松浦鎮信(法印(僧位))(まつらしげのぶ)は、豊臣秀吉の九州征伐に加わり松浦郡と壱岐を安堵(安住出来る地として領有の意味)された。慶長4年現在の平戸市岩の上町にある日之嶽(ひのたけ)に最初の築城を開始しましたが、完成間近となった慶長18年(1613)自ら城に火を放ち破却してしまいました。理由は定かではありませんが、豊臣氏と親交が厚かった為江戸幕府の嫌疑から逃れる為や、最愛の嗣子久信が死んだ為とも言われています。4代藩主松浦鎮信は徳川幕府に築城願いを出し、元禄16年(1703)江戸時代中期には例がない築城が許されました。これは東シナ海警備の必要性によるものと言われています。5代藩主松浦棟よって元禄17年(1704)に着工され、宝永4年(1707)完成しました。松浦氏についての歴史は長く古くは平安時代まで遡り、1069年8代松浦久が摂津国渡辺庄より肥前国松浦郡今福に下向し宇野御厨検校(盲官の最高位)として検非違使(けびいし(今の警察的役目))となり、1437年21代松浦義(まつらよろし)別名天叟義(てんそうよろし)は、足利6代将軍義教に赤烏帽子姿で謁見し肥前守に任じられました。1542年25代松浦隆信(まつらたかのぶ)別名道可隆信(どうかたかのぶ)は明国との交易やポルトガル船初入港の受諾、更に鹿児島からフランシスコ・ザビエルが来平戸に貢献、1564年にはフロイスに教会を平戸に建てさせる等、積極的に開港を行い外国との交易の窓口として代々続いた。1860年37代浦松詮(まつらあきら)別名心月詮(しんげつあきら)の時版籍奉還が行われ初代平戸藩知事となりました。見どころは中山愛子像(中山大納言へ嫁ぎ、明治天皇の生母)天守閣からの眺望。アクセスは松浦鉄道西九州線「たびら平戸口」下車、西肥バス「平戸市役所前」徒歩約5分
唐津城 (佐賀県唐津市)
平戸城から唐津城に向かいました。途中在来線とJR線の連結に少々問題があり、中継地の伊万里からバス路線を使うことで難を避け、約1時間で唐津駅に到着しました。唐津城は市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸満島山に位置します。唐津湾に突き出た満島山(まんとうざん)上に本丸その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城です。北面は唐津湾に面する為、海城とも言われ萩城とともに現在も直接海にそびえる石垣がみられます。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、満島山を中心に鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれます。豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられ、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍方につき肥後国天草郡4万石を加増され、12万3千石の外様大名となりました。慶長7年(1602)より本格的な築城を開始し、慶長13年(1608)に完成しました。広高の子の堅高は島原の乱(島原の一揆)の責任を取らされ天草領4万石を没収された。その後江戸藩邸で自殺し嗣子がなかった為に寺沢家は断絶となりました。以後譜代大名五家が入れ替わり城主を勤め陸奥国棚倉城(むつたなくら城)の小笠原長昌が入城後は小笠原氏が明治維新まで居城としました。見どころは桜や藤等の花々でツツジの名所です。天守閣からの展望が絶景です。天守閣城郭修復中(平成25/3/23現在)。アクセスはJR築肥線「唐津駅」下車、循環バス約18分「唐津城入口」より徒歩約1分