山口県萩市 萩城跡
名護屋城跡 (佐賀県唐津市)
名護屋城の所在地は烏賊産地の呼子町(よぶこ町)の隣町で佐賀県鎮西町名護屋(ちんぜい町なごや)1859と言うのが正確な住所です。唐津駅からバス約40分で史跡まで歩くこと約5分。バスに同乗した方の中に日本百名城の旅をされている人が数名いらっしゃいました。年恰好は同じくらいでしょうか、名城百選の本を持参して資料館に着くとお決まりのスタンプを押されていました。名護屋城は、国内統一をした豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、中国大陸へ向けて出兵(文禄・慶長の役1592〜1598)をする為、軍事拠点として築いた城です。もともと松浦党波多三河守親の家臣名護屋越前守経述(なごやえちぜんのかみつねのぶ)の居城だった垣添城を改造したお城です。波戸岬(はど岬)の丘陵(標高約90m)の上に170Kuに渡り築かれた平山の陣城です。城を中心に半径3kmの範囲に約130ヶ所の大名陣跡が確認されていることから、史上かつてない程の大城塞だったと考えられます。全国から集められた諸大名は殆どオールキャストなので名護屋城跡巡りに加え陣跡も数多く堪能できます。近隣の陣跡の一部紹介をしますと、徳川家康、前田利家、加藤清正、福島正則、島津義弘、上杉景勝、伊達正宗、黒田長政、加藤嘉明、豊臣秀保、生駒親正、小西行長、鍋島直茂等々です。掲載マップの詳細画面を開いて頂くと、そのスケールが分かると思います。見どころは名護屋城博物館、陣屋跡。アクセスは唐津駅バスセンターよりバス「名護屋城博物館入口」まで約40分、徒歩約5分

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福岡城跡 (福岡県福岡市)>
訪問した日が桜祭りの日曜日だったので歩くのも大変でした。そんな桜真っ盛りの福岡城は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦後、黒田長政が筑前国50万石余国(後に52万余石)を徳川氏から与えられ、福岡藩初代藩主になりました。長政は初め名島城に入りますが、翌年に那珂郡警固村福崎に新城を築く事とし、長政自らが設計し野口一成を普請奉行に命じました。地名は黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡に由来します。城郭の形式は梯郭式の平山城で、南側は赤坂山から伸びる丘陵を切断して堀をきり、北側は潟を埋め立て城下町とし、西側は大きく湾入する入り江(草ヶ江)を利用して大堀とし、東側は那珂川まで中堀(紺屋町堀)、そして佐賀鍋島藩の助力により掘削された肥前堀を連結しました。黒田家11代、270年間続きましたが、明治以降陸軍の管轄になり城地はそのまま温存されましたが、建築物は大半が撤去されてしまいました。見どころは鴻?館(こうろかん(古代の迎賓館))城内四季折々の樹木、大濠公園。アクセスは市営地下鉄空港線「赤坂駅」「大濠公園駅」から徒歩約5分
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大野城跡 (福岡県太宰府市)
白村江の戦い(はくすきのえ、はくそんこう)とは、天智2年(663)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で戦われました。倭国と百済遺民の連合軍と、唐と新羅の連合軍との戦争の事です。こ戦いに於いて百済復興を目指す倭国(後の日本)は新羅・唐連合軍に敗れました。そこで倭国は防備を固める為、様々な防衛施設を建設したことが『日本書紀』に記されています。翌664年には対馬、壱岐、筑紫に防人と狼煙台(のろし台)を設置、大宰府の西方に水城を築造しました。翌々年の天智4年(665)8月、長門に城を築き、同年同月に亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫へ派遣し、大野と椽(き)に城を築かせました。このうち、筑紫の大野に築かれた城が大野城です。椽に築かれた城は基肄城(きい城)と比定されています。福岡県立四王寺県民の森中心に四方に礎石群、城門跡、石仏等が散在しています。現在礎石や石仏巡りは地元人々の遊歩道になっています。距離にして1.5〜6k程度。見どころは古代遺跡探索、遊歩道、土塁、石仏巡り(33ヶ所)等があります。アクセスは西鉄太宰府線「太宰府駅」から徒歩約50分、JR鹿児島線「南福岡駅」西鉄天神大牟田線「雑餉隈駅(ざっしょのくま駅)」から西鉄バス上宇美行き「県民の森入口」乗車約20分、下車徒歩約50分 タクシーで約15分
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岩屋城跡 (福岡県太宰府市)
築城は天文年間(1532〜1554)に大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)と伝えられ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点でした。しかし高橋鑑種は主君大友宗麟(そうりん)の傲慢な振る舞いに憤り反旗を翻した為、城を逐われ大友家の宿老(家老と同義語)吉弘鑑理(あきただ)の二男吉弘鎮種(しげたね)が高橋氏の氏名を継いで高橋鎮種(法号高橋紹運(じょううん))と名乗り宝満と岩屋の両城主となりました。天正13年(1585)立花城主立花道雪(どうせつ)の死去の後、鎮種の嫡男統虎(むねとら)が道雪の養子となり立花宗茂(むねしげ)と名改め城主となり、次男の統増(むねます)が高橋家の本城宝満山城(ほうまんざん城)に入城し、一族三人で大友家の筑前での拠点防衛に就きました。天正14年(1586)7月13日、筑前一帯を平定し、関白秀吉の九州襲来を阻まんとする島津氏が総勢2万にも及ぶ大軍で攻め寄せ、大宰府政庁跡の東隣にある観世音寺に陣を設けました。高橋紹運は七百余名と共に篭城し14日間の頑強に抵抗したが、出城や砦が次々と陥落、虚空蔵砦(こくぞう砦)を守備する福田民部少輔(ふくだみんぶのしょう)も討死してしまいました。城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入りましたが、高櫓の上に登り自害し果てました。残された将兵も全員玉砕し、天正14年7月27日落城しました。紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」と城跡から道を隔てた南西側に高橋紹運の墓があり、県民の森に近い四王寺林道の小高い山に石碑が佇んでいます。地元以外の人では九州三大強豪(島津氏、龍造寺氏、大友氏)は兎も角、一武将の史跡は分からないかもしれません。見どころは岩屋城の史跡。アクセスは西鉄太宰府西鉄太宰府線「太宰府駅」から徒歩約55分、JR鹿児島線「南福岡駅」西鉄大牟田線「雑餉隈駅(ざっしょのくま駅)」から西鉄バス上宇美行き「県民の森入口」まで乗車約20分、下車徒歩約50分。タクシーで約15分
佐賀城 (佐賀県佐賀市)
龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)をはじめ龍造寺氏の宗家(代々の)居城であった佐賀龍造寺城(別名村中城)は、平安時代末期に藤原季喜(すえつな)が龍造寺村の領主になって土着しその子が龍造寺氏と称して以降、慶長期に鍋島氏が近世佐賀城を普請(改修)するまでの間龍造寺氏の拠点であった。永禄12年(1569)大友宗麟(そうりん)は筑後国高良山(こうらさん)の吉見岳城(よしみだけ城)に本陣を置き、佐賀平野の北路から大軍を投じた進攻により、佐賀龍造寺城の周辺はことごとく焼かれ城は窮地に追い込まれました。隆信は一度大友と和平しましたが元亀元年(1570)、再び宗麟は大軍で佐賀に攻めて来ました。再び追い込まれた龍造寺軍は佐賀龍造寺城に籠城し、窮地に追い込まれた龍造寺軍の鍋島信正(後の佐賀藩祖鍋島直茂)は、夜襲により今山の陣で大友軍の総大将の大友親貞(ちかさだ)を討ち取りました。(今山の戦い)その後龍造寺隆信の子政家(まさいえ)、その子高房(たかふさ)の居城となりました。龍造寺隆信が亡くなってからは家臣の鍋島直茂(なおしげ)が実権を握り蓮池城(はすいけ城)が居城でしたが、主家に憚って城の改修には手を付けませんでした。改修工事が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の、慶長7年(1602)に本丸の改修を始めてからです。直茂の改修工事を引き継ぐ容で、次期藩主鍋島勝茂が慶長16年(1611)に完成させました。内堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、5層の天守も建造されました。その後元和の一国一城令でかつての居城の蓮池城は破却されました。明治7年(1874)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠され、建造物の大半を失いました。見どころは佐賀城本の丸歴史館。アクセスはJR長崎本線「佐賀駅」よりバス10分
吉野ヶ里遺跡 (佐賀県神埼市)
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に、およそ50ヘクタールにわたって遺構が残る弥生時代の大規模な環濠集落の跡です。環濠集落(かんごう集落)とは周りに堀をめぐらせ外敵から隔離された集落で、水堀の場合は環濠と書き、空堀の場合は環壕と書く様です。弥生時代は約700年間も長く続いた時代で、この吉野ヶ里遺跡は弥生時代の全ての時期の遺構や遺物が発見された、学術的価値の高い遺跡です。集落が最盛期を迎える弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)を復元整備の対象時期として、これまでの発掘調査成果を基に復元整備を行っています。見どころは古代植物館、弥生くらし館(体験プログラム)、テーマパークがあります。入場料400円(大人) 80(小人)。アクセスはJR長崎本線「吉野ヶ里駅」下車徒歩約14分
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島原城 (長崎県島原市)
ここは森岳と言う地名で有馬晴信(ありまはるのぶ)が本陣を構えて佐賀の龍造寺隆信軍(りゅうぞうじたかのぶ軍)を撃破した所でもあり、この島原城は別名森岳城とも呼ぶようです。この瑞祥(地名の由来)の地に奈良県五条から入封した松倉重政(まつくらしげまさ)が島原城を築きました。元和4年(1618)年に着工し4〜7年の歳月を経て完成し、同時に島原城下町も整備したといいます。層塔風総塗込式(そうとうふうそうぬりこめ式)の五層の天守閣を据える本丸と、北へ二の丸と三の丸を配置して要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ錬塀で取囲まれています。4万石の大名にしては過分な城で、ここに有馬氏時代から海外との交易で得た利益と松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。その後、松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、そして再び松平氏と4氏19代の居城として続きました。その間の寛永14年(1637)島原の乱(一揆)では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政4年(1792)島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。また弘化4年(1847)にはロシア艦隊が長崎に入港した為、この島原藩が出兵しました。明治維新で廃城になりましたが、昭和39年(1964)に天守閣が復元されました。見どころ は天守閣資料館、西望記念館、観光復興記念館。アクセスは島原鉄道「島原駅」下車徒歩約10分
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長崎平和公園 (長崎県長崎市)
3/25朝早にホテルを出発し目指すは、長崎の名所で勿論平和公園は外せません。長崎市内の一日乗り放題乗車券を購入して長崎駅から浜口町駅を下車し道路を隔てた所に、平和公園が見えてきます。普通は階段だと思うのですが、なんとエスカレータがあるではありませんか、年寄りには助かります。公園広場の花壇には春の花々が色華やかに咲いていました。公園の北端中央にある「原爆犠牲者慰霊平和祈念像」は北村西望(せいぼう)が制作しました。この像は神の愛と仏の慈悲を象徴しており高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味し、軽く閉じた目は原爆による犠牲者の方々の冥福を祈っています。 此処は、昭和20年(1945)8月9日に投下された原子爆弾投下の中心地(爆心地)と、その北側の丘の上とを含めた地域に、平和を祈って設けられました。面積は約18.6ヘクタールありますが入園料などはありません。平和公園周辺には爆心地にもっとも近い公共の建物だった旧長崎刑務所浦上刑務支所があり、 原子爆弾のさく裂によって刑務所内にいた職員18名、官舎住居者35名、受刑者及び刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人13名)計134名全員が即死した建物の土台が残っていました。是非供養を兼ねて訪問して頂きたい所です。お願いエリアとして長崎の鐘、平和の泉、母子の像、原爆資料館は是非厳粛な気持ちで訪問して頂きたく思います。アクセスはJR長崎駅より市電「浜口駅」下車徒歩約5分
大浦天主堂・グラバー園 (長崎県長崎市)
平和公園から市電で石橋方面へ約15分「大浦天主堂下駅」下車、徒歩で坂道を上がっていきますと最初に国宝大浦天主堂が正面に見えてきます。更に登ること約8分でようやくグラバー園に到着しました。平和公園もそうでしたが初めて見る異国情緒ある光景が多いので興奮しっぱなしでした。遡る事150年前遠くスコットランドから渡来したトーマス・ブレーク・グラバーが遥か日本に住まいを建設したのは1863年の事です。当時長崎の街は、日本の新しい夜明けを夢見る人々の熱気であふれていました。夢を抱いてやってくる異国の商人たちや、坂本竜馬に代表される倒幕の野望に燃える幕末の志士たち、そして西洋の学問を志す日本の若者たちがいました。ここグラバー園内に当時の記憶と共に長崎を愛し長崎に暮らした貿易商たちの邸宅が、形を変えることなく残されています。タイムスリップとはいいませんが、ノスタルジックな時間での散策が堪能できます。またアドバイスとしては長崎市内だけでもこれ以外に坂本龍馬縁の地や出島等、数多くの見物出来るスポットがありますので、出来れば2日位のプランで行かれる事をお勧めします。見どころは旧グラバー亭(園内)、展望長崎港、大浦天主堂。アクセスはJR長崎駅より市電「大浦天主堂下駅」下車徒歩約15分
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萩城跡 (山口市萩市)
3/26とうとう九州を離れる時がきました。今日は、青春切符を使って出来るだけ長い距離を乗ろうと思います。博多から門司そして下関を経て山陰本線から東萩の萩城跡を目指し、何とか5時間程掛けて目的地に着きました。萩城跡は東萩駅からは市内循環バスで向かいます。萩城は毛利輝元(もうりてるもと)が慶長9年(1604)ここ日本海に面した長門国の萩に築城を開始し、阿武川河口の三角州を整地しました。萩城は標高143mの指月山(しづき山)の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれます。輝元は関ヶ原の合戦で西軍の総大将を務めましたが、敗戦のため長門、周防の2国に減封されました。そして広島城に代わる居城として萩城を築きました。その後250余年続いた長州(萩藩)の拠点でしたが、明治7年(1874)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却されてしまいた。現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家(あさりもうり家)萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、松下村塾(しょうかそんじゅく)や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっています。因みに厚狭毛利家は毛利元成の五男元秋を始祖とする毛利家一門です。アドバスとして萩市はかつて長州藩の拠点であった町で、ここ以外にも歴史ある建造物等見物する所が数多くありますので、2日程度のプランで行かれる事をお勧めします。見どころは天守閣跡、花江茶亭、萩資料館、武家屋敷街、松下村塾。アクセスはJR東萩駅より東循環バス、JR萩駅より西循環バス利用「萩城跡前」から徒歩約1分
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