長野県上田市 上田城跡


箕輪城跡 (群馬県高崎市)
2013/10/02 残暑のきびしい9月も過ぎ漸く秋らしくなった日、久しぶりの旅行に胸をときめかせながら、夜半に旅支度を整え1:30頃に出発です。まるで夜逃げ見たい!しかし今回は友人の住む福島県を目指すのでかなり長旅です。そして車での移動なので混雑の少ない時間帯とルートを選択しました。途中の寄り道は当然あるでしょうし、小休止を取りながら時間を有効に使います。愛知県長久手ICより中央自動車道に入り更埴(こうしょく)JCTを経て上信越自動車道・関越自動車道と乗り継ぎ、8:40頃前橋ICを下車します。最初の脱線コースは高崎市箕郷町(みのさと町)にある箕輪城です。言い忘れましたが、行程時間は約7時間位で、途中PAで仮眠の小休止を取ったりしたので眠気もなく快適な朝を迎えました。箕輪城に到着したのは9時頃です。箕輪城は日本百名城に記載されていることもあり、かなり広大な堀と曲輪跡などを見ることができます。沿革の箕輪城は大永6年(1526(1512と言う説も有り))長野業尚(ながのなりひさ)によって築かれた丘城です。業政、業盛と受け継がれ、業盛の代の永禄9年(1566)に甲斐の武田信玄の攻撃を受け落城、そして長野氏は滅亡しました。その後武田家の家臣の内藤昌豊(まさとよ)が城主として入りますが、武田家滅亡後は織田信長の家臣の滝川一益(かずます)の居城となり、本能寺の変で信長が死ぬと小田原の北条氏が支配することになりました。そして北条氏滅亡後に関東に入った徳川家康は徳川四天王の一人の井伊直政を入城させました。慶長3年(1598)になると直政は南方の和田宿に新たな城(高崎城)を築き移転するとともに、和田宿を高崎と改名し箕輪城は72年の歴史を終えました。豆知識として上泉信綱(剣聖)は上州の戦国武将の長野業正の家臣として武田信玄や北条氏康と戦い、その功績から「長野十六槍」と賞賛され、また「上州一槍」の感状を長野業盛より贈られたと言います。武田信玄により長野家の居城である箕輪城が落城すると、秀綱(信綱)の武勇を惜しんだ信玄から自分に仕えるように勧められるも、兵法修行を理由に固辞しました。信玄は己の名から「信」の一字を秀綱に与え以降「信綱」と改名したという逸話が「甲陽軍鑑」に記されています。アクセスはJR信越本線「高崎」駅から群馬バス「箕郷本町」下車より徒歩約20分。見どころは主な遺構(堀・石垣・土塁)
金山城跡 (群馬県太田市)
高崎市の箕輪城は広大な遺構なため、散策にはもってこいですが少々疲れました。さて先へと足を進めるため高速道を利用して太田市に移動します。私事ですが群馬県は余り縁がなく素通りすることがあっても立ち寄ったことのない県です。従がってこの機会に多少なりとも見聞をしていきます。太田桐生ICを降りて10分位で太田市の真中に聳え立つ約235mの金山の麓に到着します。山の頂上には金山城跡と中島記念公園が隣接しています。今まで幾多の城を登城しましたが、さすがに駅から徒歩50分との前書き資料は見る気にもならなくて車で来てよかったです。11時過ぎに頂上に辿り着き、徒歩で主な遺構を見学します。なかでも復元整備された大手虎口にある曲輪の土塁等は、目を見張るものが幾つかありました。歴史は文明元年(1469)に新田一族の岩松家純(いわまついえずみ)が築いた城が起源と云われています。城は下剋上によって岩松氏の家臣であった由良氏の手に渡り、難攻不落の堅城として名を馳せます。上杉謙信に2度、武田信玄と勝頼親子に1度ずつ攻められますが、いずれも退けています。しかし北条家に対しては卑怯にも人質を取られたことで仕方なく開城したという逸話も残っています。その後北条氏の支城となってより堅固な城へと改築されましたが、小田原征伐には戦わずして開城することになりました。アクセスは東武伊勢崎線「太田」駅から徒歩約50分。見どころは大手虎口、日の池
足利氏館 (栃木県足利市)
群馬県での見聞は日本百名城にとどまり十分な観光とは云えませんでした。もっとも今回の最終目的は福島県二本松へ行くことなので、次の楽しみにとっておきます。さて金山城跡で掛かった時間は20分程と云うことで、少し時間が取れそうなので隣の栃木県足利市にある足利氏館に寄ってみることにします。有料道路を使わずとも一般道で30分くらいの位置ですから近いと云えば近いと思います。どちらにしても百名城のスタンプはまず獲得できそうです。12時過ぎに入館しましたが、幸い拝観料もなく先の群馬県での城跡同様駐車料金も掛かりませんが、鑁阿寺(ばんなじ)本堂内ではお賽銭程度は御入用かもしれません。本堂の概要は足利氏の居館跡に建てられた、東日本を代表する中世の密教本堂です。室町幕府初代将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)の父貞氏(さだうじ)が正安元年(1199)に再建したもので、当時の最新建築様式であった禅宗様建築をいち早く取り入れ、外来の新技術の受容のあり方をよく示しています。足利市の国宝指定として初めての建造物でありますが、栃木県の建造物では日光市の輪王寺大猷院霊廟(りんのうじだいゆういんれいびょう)以来となります。豆知識として鑁阿寺の創設者の源姓足利氏2代目足利義兼(よしかね)が建久七年に邸宅内に大日如来を安置したもので、以来義氏、泰氏、頼氏、家時をへて貞氏の時代に再建されたものです。アクセスはJR両毛線「足利」駅より徒歩約10分。東武伊勢崎線「足利市」駅より徒歩約15分。見どころは鑁阿寺、鐘楼、経堂(国重文)近隣の史跡足利学校
上杉神社 (山形県米沢市)
昨日の10/2夕刻には二本松市の友人宅に無事到着しました。2013/10/03本日はその友人と山形県米沢市にある上杉神社を訪問することにしました。二本松市から一般道で小一時間は旅人にとって丁度いいかもしれません。神社に着いて思ったことは、平日にしては観光客が多いのはやはりTVの「天地人」効果があったのかもしれません。神社といっても旧米沢城跡の中に上杉神社や春日神社が置かれていますが、城という括りで城下町観光は確かにお城ですが日本百名城への登録はやや難攻(独り言)かもしれません。いずれにしても上杉景勝、直江兼続の人気は今も上々です。歴史をひもとくと上杉謙信の病没後関ヶ原の合戦で西軍に加勢した景勝は会津120万石から米沢30万石に減封され、これにより米沢藩初代藩主上杉景勝が誕生しました。その執政を執ったのが直江兼続で君主と領民の為に心血を注ぎ、60年の生涯を閉じるまで現在の米沢の礎を築きました。米沢藩藩主は13代まで続きましたが戊辰戦争後米沢藩を廃し、米沢県(1871)を置きさらに置賜県(おきたま県)になり1876年には山形県に合併されました。豆知識として米沢藩9代藩主上杉治憲(はるのり)別名の鷹山(ようざん)は高鍋藩(宮崎県)藩主秋月種美(たねみ)の次男として生まれ10歳の時上杉重定の養子となります。17歳で米沢藩を襲封し財政の窮迫する米沢藩の再興に成功し、35歳で隠居するも72歳まで藩主治広の後見役として藩政を指導しました。鷹山公の名言「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」は有名です。アクセスは奥羽本線(山形新幹線)「米沢」駅より徒歩約20分。米坂線南米沢駅から徒歩約10分。見どころは稽照殿(けいしょうでん、(宝物殿))上杉謙信像、上杉鷹山像、天地人像。
猪苗代城跡 (福島県耶麻郡)
2013/10/03上杉神社からの帰り道友人から城の話があり、実は以前この街道を通過している時何気なく見ると公園らしき中に亀ヶ城址と書かれた石碑を発見したと言うのです。興味の湧く話なので今回行くことにしました。やはり石碑がありました。しかも別に公園の地図には猪苗代城と鶴峰城の2城跡の名が書かれています。縄張りには亀ヶ城公園と記載されており、よく分からないのでプチ調査することにしました。先ずは、亀ヶ城址見取り図と立て看板の上がっているところから調べることに別段変りなく普通の城跡地より規模が小さい程度で遺構など殆ど同様。公園地図で見た鶴峰城跡地は亀ヶ城跡に隣接した小さな山林で、若干の土塁らしき物が残存しています。地元の猪苗代観光協会に尋ねると猪苗代城の別名は亀ヶ城と言うそうです。また鶴峰城に関しては戦国時代の城郭造りで猪苗代氏の隠居所になり、殆ど廃城だと云われています。沿革の亀ヶ城跡築城については、相模国の御家人佐原義連(さわらよしつら)の孫の経連(つねつら)が鎌倉時代初期に築いたといわれていますが真偽は不明です。ただ経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭として一帯を治めていた為、その過程において築城されたのは間違いないと思われます。因みに会津盆地を治めていた蘆名氏(あしな氏)も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族です。猪苗代氏は本家の蘆名氏に対して、反逆と従属を何度も繰り返し最終的には、天正17年(1589)の摺上原(すりあげはら)の戦いの直前に、当時の当主猪苗代盛国(いなわしろもりくに)が伊達政宗に内応し、蘆名氏を滅亡に追い込みました。豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉しました。その後亀ヶ城跡(猪苗代城)は会津若松城の支城として戊辰戦争まで役目を全うしました。アクセスはJR磐越西線「猪苗代」駅より徒歩約20分 見どころは亀ヶ城公園4月の桜祭り、野口英世胸像(野口英世が幼少期に、この城跡で遊んだ所縁の地)
小諸城跡 (長野県小諸市)
2013/10/07二本松を去る日が来ました。あっという間の5日間でしたが、また来年への思いを目標にすれば楽しみも増えるでしょう。さて帰りは一般道でゆったりのんびり帰るつもりでしたが、矢板から高速を使用しました。理由は日本百名城の小諸城に寄りたくなった為で、早朝8時頃出発したにも拘わらず矢板まで4時間も掛り、さすがにこれではゆったり過ぎです。ともあれ高速を使えば小諸まで2時間程で行けるでしょう。小諸に着いたのは14時過ぎでした。早速小諸城跡(別名懐古園)に足を運ぶことにしました。城は正面からは平城(門に向ってやや下り)ですが、反対側は断崖絶壁の山城となって城としては珍しい「背水の陣」的形態となっています。また断崖からは千曲川一帯が遠望でき「小諸なる古城のほとり・・・」と唄った島崎藤村の旅情の情景がそこにあります。懐古園内は城跡だけではなく児童遊園地の動物園があり家族連れも楽しめる施設になっています。観光客が求める期待は様々ですが城跡だけの景観としてはやや寂しいかもしれません。しかし懐古園の歴史を背景にその雰囲気や人物を彩れば景観がよく見えてくるのも確かな事かもしれません。まあ、私が云うまでもなく一人ひとりの感性によって楽しみ方がいろいろあるということです。沿革は「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼が現城址の東側に館を築きましたが、その後大井光忠が小室氏の勢力を抑えて鍋蓋城(なべぶた城)を築きその子光為がさらに出城として乙女城(別名白鶴城)を構えました。しかし武田信玄によって落城します。信玄はこの地に新たな城の酔月城を山本勘助と馬場信房に命じて造らせました。現在の小諸城(慶長17年1612年)と呼ばれる基礎を築いたのは藩主仙石秀久(せんごくひでひさ)です。その後六氏の城主と牧野家が入り十代に及びました。明治4年(1871)の廃藩置県で城としての役割を終え明治13年(1880)には懐古園と呼ぶようになりました。豆知識は島崎藤村が小諸義塾時代に講師として教鞭をとる傍ら小諸で過した7年間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」「落梅集」に収められた冒頭詩の「千曲川旅情」は有名で、また大作「破戒」等が起稿されました。懐古園では藤村以外の歌人碑も見られます。アクセスはJR小海線及びしなの鉄道「小諸」駅から徒歩約3分。見どころは三の門、大手門、懐古園、千曲川景観
上田城跡 (長野県上田市)
2013/10/07現在15時を少し回ったところで小諸城に別れを告げ、一路本日最終訪問地の上田城へ行くことにします。閉館時間は17時なので、取り敢えず急ぎます。高速道を使い上田菅平ICを経由して上田城に15時50分に到着。駐車場は一番近い鳥居の中を利用させて頂きました。上田城の櫓門を潜り南櫓・北櫓に歴史資料等が拝観できるよう陳列されています。敷地内の市立博物館や山本鼎(山本かなえ)記念館も見学コースとなっています。また現存の櫓のうち昔の姿をとどめているのは西櫓です。上田城跡(上田城跡公園)は敷地が余り広くないので城下町や観光名所をゆっくり楽しむことができます。因みに六文銭は真田家の旗印(後に家紋となる)として有名です。沿革の上田城は甲斐の武田氏の旧臣だった真田昌幸により、天正11年(1583)に築城された平城です。また真田昌幸が二度にわたって徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われた事で有名です。第二次上田合戦の後、関ヶ原の合戦おいて真田昌幸と信繁(幸村)が属した西軍が負けたため、上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められました。そして江戸時代には上田藩の藩庁が置かれ、真田氏が信濃国松代へ転封された後に仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建しました。宝永3年(1706)には仙石氏から松平氏に替わり、上田在城は明治維新まで及びました。アクセスはJR長野新幹線「上田」駅から徒歩約10分。見どころは上田城公園の千本桜、上田城櫓、博物館