高知県高知市 JR高知駅前
高知城 (高知県高知市)
さて、いよいよ高知城です。駐車場に車を止め、追手門に近づく途中に山内一豊の銅像があり、暫く写真を撮り入城します。門を潜ると直ぐに明治の指導者板垣退助の銅像があります。そして目前には堅牢な石垣と鉄門跡が見られ、足を進めるうちに三、二の丸と過ぎ本丸に辿り着きます。高知城も現存する古天守閣の一つです。沿革は元々この地にはこの地の豪族大高坂氏の大高坂城と言う城があった様ですが詳細は不明です。現在の城は関ヶ原の戦で功績をあげた、遠州掛川(静岡県)より入国した山内一豊が、この地を城地と定め慶長6年(1601)秋から築城をはじめました。百々越前守安行(どどえちぜんのかみやすゆき)を総奉行に任じ、難工事の末城をほぼ10年の歳月をかけて完成させます。時は二代藩主忠義の治世に移った慶長16年のことでした。城名は一豊により河中山城(こうちやま城)と名付けられますが、高智山城と字体が変えられ、高知城となりそれに伴い地名も高知となりました。その後明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、現在は高知公園となっています。軍事拠点の城として築城されましたが、徳川時代の太平の世から明治維新、そして現在まで新しい時代の波風を受けず、安寧な城だったようです。また元土佐藩士だった坂本竜馬や、三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎等を輩出した事は余りにも有名な城地でもあります。見どころは現存の古天守閣、追手門。アクセスJR土讃線「高知」駅から徒歩約25分
宇和島城 (愛媛県宇和島市)
2013/02/11に愛媛県に滞在した折り大洲城まで南下したのですが、生憎宇和島行きの路線バスの時間割が合わず、已む得ず断念しました。今回(2013/05/14)はしまなみ海道からストレートに宇和島城を目指します。現在の時間も午前11:30過ぎなので16:30までには余裕で入城です。しかし私はここで大きなミスを犯しました。なんと大島北ICは本州方面の出入り口しかなく、四国方面は大島南ICでしか利用出来ないのです。そんなことも知らず大島北ICから本州に向って逆走、勿論走行車線は正しかったのですが・・・おいおい、って言いたくなりつつ次の伯方島(はかた島)ICで事情説明すると、事無く料金免除で正規の四国方面ルートに戻る事が出来ました。約20分近くのロスタイムですが、高速を上手く利用しながら行けば大丈夫でしょう。結局3時間弱で宇和島城跡に到着しました。このお城は日本古天守閣の12城に入り、現存の天守閣です。第一印象は3重の小さな城に見えましたが、意外と城壁は堅固雄大な重厚さを感じました。宇和島城の歴史は、天慶4年(941)警固使の橘遠保(橘とおやす)が藤原純友(藤原すみとも)の乱の際に、この地に砦を構えたとされています。 嘉禎2年(1236)西園寺公経(さいおんじきんつね)が宇和島地方を勢力下に置き、この地に砦程度の城の板島丸串城を置きました。天文15年(1546)になると家藤監物(家藤きんもつ)が城主となり、大友氏、長宗我部氏等の侵攻に対抗しました。天正13年(1585)には豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となり家臣の持田右京が大洲城の城代となります。天正15年(1587)には小早川隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城し、戸田与左衛門が丸串城の城代となりました。その後文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城し、慶長6年(1601)現在の姿の城が完成し宇和島城と名付けられました。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(今治市)に移封となっていましたが、この年城の完成を見て国府に移りました。慶長13年(1608)富田信高が伊勢国より転封し入城しますが、慶長18年(1613)には改易となります。そして宇和郡は徳川幕府直轄となり、藤堂高虎が代官となり藤堂良勝が城代とました。慶長19年(1614)伊達政宗の長男(庶子の為嫡子ではない)伊達秀宗が10万石で入封し、寛文11年(1671)2代目藩主の伊達宗利が 改修竣工し現在の天守が残りました。豆所見は戦国時代から江戸の平穏な時代背景が軍事性の城から装飾性の城に変わってきたことが現存に繋がったと思われます。見どころは城山郷土館、近隣の宇和島市立伊達博物館、古天守閣。アクセスはJR予讃線「宇和島」駅より徒歩20分、天守まで15分
鞆の浦 (広島県福山市)
2013/05/13自車での移動で昨日は島根県松江城より、津和野を経由し広島県の西条へ辿り着き、どうにか時間内にホテルにチェックインできました。翌05/14早朝6:30にはチェックアウトを済ませ尾道から福山向かう際、友人からメールが届き「古めかしい灯台のある港に立ち寄れば」との助言がありました。地元の人に尋ねてみると鞆の浦(ともの浦)だと分かり立ち寄る事にします。港町までの道は余りにも狭く対向車とすれ違うのも難しいくらいです。やっとのことで湾内に入り、周りを見渡すと普通の小さな港町と変わらない・・と思いきや、堤防の方を見ると先端にある灯台と周りの建物は、まさにタイムスリップしたような光景です。近づいて見れば見るほど風情があり、明治・大正の写真に出てきそうな景色ですね。港で仕事をしている人に尋ねてみると灯台は常夜燈、灯籠燈(とうろどう)と呼ばれ船の出入りを誘導する江戸時代のもので、更に鞆港に残る江戸時代の港湾施設は、港の入口を示すこの灯台「常夜燈」をはじめ風波から港内を守る防波堤の役目「波止場」、船体を修理する場所「焚場」(たでば)、積荷の揚げ下ろしができる「雁木」(がんぎ)、船の出入りを管理する事務所「船番所」等これらの施設がセットで存在しています。これら全て揃って残っているのは全国でも鞆港だけだそうです。また鞆城跡が港の小高い丘にあり、室町幕府最後の将軍の足利義昭を迎えて毛利氏が整備した城です。足利氏ゆかりの地に築かれ,鞆幕府と呼ばれた期間は歴史上で脚光を浴びた城といえます。幕末時には「いろは丸事件」で坂本龍馬と海援隊士が鞆(とも)に上陸したおり、数日間宿泊した廻船問屋や枡屋清右衛門宅もあります。その他に鞆の浦に所縁(父の実家)のある箏曲家宮城道雄が失明前に育てられた場所で、名曲「春の海」はこの「鞆の浦」の海からイメージを受けて創作した作品と言う話はとても有名です。見どころは常夜燈、鞆城跡、町並みアクセスはJR山陽本線「福山」駅から鞆鉄バス約30分、タクシー約25分
松江城 (島根県松江市)
2013/05/13月山富田城の見学を終えて、今度は松江市内に向い松江城を訪問します。富田城を9:50に出発して約1.5時間で、目的地の松江城に11:20過ぎに着きました。早速入城すると平日なのに意外と観光客が多くて、これは近くに出雲大社や石見銀山(いわみ銀山)もある事から観光コースになっているからかもしれません。しかし松江城も数少ない現存の古天守閣ですし、風光明媚な場所なので観光客が多いのも当然だと思います。それに色々と趣向を凝らして、堀の遊覧船など他にない取り組みがされているのも面白いです。また散策コースには、四季折々の花を観賞できるように工夫もされています。島根県松江市殿町にあり千鳥城とも呼ばれます。歴史は関ヶ原の戦いの軍功により堀尾吉晴は、出雲と隠岐(おき)の24万石の領主として初め月山富田城に入りましたが、政治上や軍事上の利点から国の中央部にある交通の便もよい松江の地を新城地として選びました。城は宍道湖(しんじ湖)の水を引いて堀とし、亀田山を利用した平山城です。慶長12年(1607)着工し16年に一応の完成をみました。亀田山の山頂を本丸とし、その南に二の丸、さらに堀を隔てて南に三の丸を設け、ここに居館がありました。五層六階の天守閣は現存の天守で、黒の下見板(したみいた)張りで、しかも望楼式の古い様式をとどめています。堀尾氏の三代、京極氏の一代を経て、寛永15年(1638)からは松平氏が世襲して幕末に至りました。見どころは現存古天守閣、隣接の松江歴史館、近隣の小泉八雲記念館。アクセスはJR山陰本線「松江」駅徒歩約20分もしくは松江市営バス「大手前」下車徒歩約5分
月山富田城跡 (鳥取県安来市)
いよいよ鳥取県から島根県に移り月山富田城跡(がっさんとだ城)に向かいます。といっても隣町なので距離にして約20kです。少し変わった城名ですが元々は月山城とも富田城とも云われ、地元の歴史資料では富田城で多く記されています。R9で米子〜安来市を経て広瀬町に入り川沿いを南下すると、近くに三日月公園があり園内には尼子経久(尼子つねひさ)を偲んで銅像が建てられています。迂回するように公園の手前200m程で新宮橋を渡り右折すると約100mで安来市立歴史資料館があります。城跡までは徒歩で登城することになりますが、さほど厳しい勾配ではありません。但し、この時期(春)は蛇や蜂が出没するので、十分気を付けて登城する必要があります。「さほどの勾配ではない」とは言いましたが、歳のせい?か私は少し時間が掛かり、やっと本丸跡に着きました。直ぐ傍には山中鹿介幸盛(山中しかのすけゆきもり)の記念碑や勝日高守神社(かつひだかもり神社)の建屋、そしてお目当ての月山富田城跡が広がっています。城の歴史は保元〜平治の頃(1156〜1159)、平家の大将平景清(異名悪七兵衛(あくしちびょうえ))であると伝えられていますが、その他に佐々木高綱や佐々木義清などの諸説がありいずれも明らかではありません。しかし築城は長寛〜文治年間(1163〜1189)の頃と推定されています。月山富田城が最も華やかであったのは京極氏の守護代であった尼子氏で、中でも尼子経久(つねひさ)の時代です。経久は下克上の戦国期に守護代の地位から守護の京極政経に対抗して、戦国大名として独立しました。経久はこの対立から富田城を追われましたが、文明18年(1486)に劇的な富田城奪回に成功したと言う逸話が残されています。その後の天文10年(1541)に出雲諸城は勿論、84歳で没するまでに山陰から山陽までを領し最も繁栄しました。経久の後を継いだ尼子晴久の代には、安芸の毛利元就(毛利もとなり)に侵攻され、永禄9年(1566)尼子義久の篭城戦の末に月山富田城は開城しました。見どころは安来市立歴史資料館、山中鹿介幸盛の銅像、尼子経久の銅像(三日月公園)。アクセスはJR山陰本線「安来」駅よりバス「歴史資料館前」まで約25分
米子城跡 (鳥取県米子市)
2013/05/13早朝より米子城跡(よなご城跡)を見学に行く為、昨夜は米子に宿泊しました。それは時間の浪費を抑制し効率よく巡る事が必要だからです。勿論それなりの宿泊費は掛かりますが、リーズナブルに活用できれば満足です。さて米子城跡も鳥取城同様に建屋がなく、あるのは石垣跡だけですが、天守の跡地からは360°見渡すパノラマ風景が堪能できます。米子城の沿革は応仁から文明年間(1467〜1487)に、山名宗之によって砦として飯山(いいの山)に築かれたのが始まりと伝えられています。文献上では「出雲私史」に文明2年(1470)に初めて記述がみられます。現在「城山」と呼ばれている湊山の本格的な城としては、西伯耆(ほうき)の領主となった吉川広家(きっかわ広家) が天正19年(1591)に築城を開始しましたが、完成を見ずに関ヶ原の戦に敗れ岩国へ国替えとなります。関ヶ原の合戦以降の慶長6年(1601)に伯耆国18万石の領主として中村一忠が封せられ、慶長7年(1602)頃に米子城は完成したといわれています。慶長14年(1609)には一忠が急死した為中村氏は断絶し、翌年に6万石の領主として加藤貞泰(加藤さだやす)が入城しましたが、その後に中江藤樹(中江とうじゅ(尊称近江聖人))が米子に入りますが、元和3年(1617)に加藤氏も伊予国大洲へ国替えとなります。そして因伯領主 池田光政の一族の池田由之(池田よしゆき)が米子城預かり3万2千石となります。寛永9年(1632)に池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城預かり1万5千石となりました。以後明治2年(1869)まで荒尾氏が代々米子城主として城を預かり、自分手政治(委任政治の意味)を行ないました。見どころは天守跡地からの景観。アクセスはJR山陰本線「米子」駅から二の丸枡形虎口まで徒歩約15分
鳥取城跡 (鳥取県鳥取市)
河原城から次の鳥取城まで、さほど時間が掛からないのは助かります。同県内でも北海道や岩手県の様に広いと道中で一日を終えてしまいます。然し、自車で移動する旅の醍醐味は様々な出合いが潜んでいるもので、長距離移動、特に一般道の移動も捨てたものではありません。勿論、列車の旅はまた異なった出会いがあるかもしれません。等と思っている間に到着です。鳥取城の近くには駐車場がなく危うく路上での駐車になりそうでしたが、案内係りの方から指示を受けた場所に止めることができました。鳥取城跡には天守や櫓といった類のものはなく、殆ど石垣跡が残っているだけです。鳥取城の歴史は天正元年(1573)に山名豊国が、居城を布施天神山城より鳥取城へ移した頃からと云われています。話は織田信長と毛利輝元の全面対立が口火となり、戦火の矛先なった三木城(兵庫県)から始まります。天正6年(1578〜80)羽柴秀吉の「干し殺し」に遭い、三木城主別所一族は切腹し果てたのですが、その次の進攻先となったのが鳥取城なのです。同じ手を喰わぬ様にと城主山名氏は早々と降伏し、天正9年(1581)毛利方から新たな城主として石見国福光城主(富山県)吉川経家が派遣されますが、兵力で圧倒的に勝る秀吉軍は徹底的な包囲網を敷き、陸海を封鎖して三木城同様の一切の補給路を断つ「兵糧攻め」作戦を行いました。遂に経家は追い込まれ部下と民の命と引き替えに自刃させました。これが有名な「渇え殺し」として知られ鳥取城は落城したのです。その後城主となった宮部氏、池田氏が城を整備拡張し現在見られる曲輪が形成されました。池田氏は戦国の世を上手く立ち回り現在の16代目当主の池田百合子さん(健在)まで続いています。当主池田家は“武道”を重んじ諸国から剣の名士を招き、さまざまな流派が生まれ鳥取市は剣豪の所縁の地として、「サムライ魂」と出会う魅力も持っている町なのです。豆知識として、鳥取県出身の小学唱歌作曲家の岡野貞一(1878〜1941)の幼い頃すごした郷土の鳥取を懐かしく追想したメロディーは、今もなお多くの人々に愛唱されています。ふるさと・春が来た・おぼろ月夜・もみじ等があります。見どころは整然とした石垣群、重要文化財仁風閣、鳥取県立博物館。アクセスはJR山陰本線「鳥取」駅からバスで「西町」下車、徒歩約5分








村上水軍博物館 (愛媛県今治市)
鞆の浦を後にいよいよ四国路へと、瀬戸内しまなみ海道での新たな感動とふれあいを求めます。しまなみ海道の島々は、本州側の広島県(向島、因島、生口島)と四国側の愛媛県(大三島、伯方島、大島)とを八橋で結んでいます。今回訪問したのは大島にある村上水軍博物館で、残念ながら模擬城(因島)ではありません。博物館内には南北朝から戦国時代にかけて、瀬戸内海を支配した村上水軍の歴史や世界の資料や展示物、それに展望室から史跡の能島城跡(海上の孤島)が眺望できます。村上水軍の文献史料上で最も古い記録は1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄(ゆげのしょう)付近で海上警護を請け負い、南北朝時代には因島、弓削島(ゆげ島)等を中心に瀬戸内海の制海権を握り、海上に関を設け通行料を徴収し水先案内人の派遣や、海上警護などを行っていました。戦国期には因島村上氏は毛利氏に臣従し、来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は越智(おち)姓を名乗ることを許されました。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていましたが臣従はありませんでした。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担って、来島村上氏は早くから豊臣秀吉につき独立大名とされ、他の二氏の能島村上氏は小早川氏、因島村上氏が毛利氏の家臣となりました。天正16年(1588)に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となります。そして海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされ、因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻(山口県防府市周辺)を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から山口県周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となりました。また来島村上氏は江戸期に豊後国の玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられました。因島には因島水軍城(模擬城)があり、因島村上氏にまつわる武具・遺品が展示されています。見どころは博物館、大人300 高校生以下無料。アクセスは尾道から「大島北IC」約3q。今治から「大島南」ICから約10q
高知市情景 (高知県高知市)
2013/05/14前日は、宇和島から高知県を目指し途中運が良ければ、四万十市(しまんと市)の中村に寄って、中村城(模擬城)資料館を拝観するつもりでしたが、全く方向違いの道を走行していたもので来期にすることにしました。因みにナビはアナログで昔ながらの地図帳です。残念したお蔭と言ったらなんですが、結果的にはこれで少し高知市へ早く駒を進める事が出来ました。高知市内での食卓には鰹のたたきと土佐鶴(日本酒)が並べば最高ですよね。翌2013/05/15早朝に高知駅に行き、土佐の三勇志の銅像の撮影をしました。最近出来たのかまだ新しいです。誰かと言いますと、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山(ずいざん(通称は半平太))です。あまり時間を掛ける間もなく、桂浜へ約8qの道のりを急ぎました。途中またまた発見しましたよ、若宮八幡宮の横を通る時、なにげなく見ていると土佐の武将の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の銅像があるではありませんか。長宗我部氏は土佐七雄とも呼ばれる七豪族の一で、元親は四国を平定しました。行き過ぎたので慌てて戻り写真撮影です。いや凛々しい元親初陣の姿です。桂浜の駐車場は8:30まで無料なので滑り込みのセーフです。8:05駆け足で有名な砂浜へ、と言っても実は波打ち際は砂ではなく五色石と言われる玉砂利が主です。そして小高い丘の上で大海を遠望する坂本龍馬像、すべて独占しました。もう少し長居をして悠長に「憩いの地」に浸っていると次に行けなくなるので、20分程でお暇しました。帰り道は同じ道を通るわけですから、来る時と違った景色や周りが見えて来ます。少し探求しながら走っていると、やはりありました。浦戸城跡の石碑がひっそりと佇んでいました。永禄3年(1552〜1555)築城者は土佐七雄の豪族の一人本山茂宗ですが、永禄3年(1560)に長宗我部国親(長宗我部くにちか)により落城し、国親の嫡子の元親(もとちか)が岡豊城(高知県南国市)から移り本拠としました。関ヶ原の戦い後城主交替に伴い浦戸一揆が起こりますが鎮圧され、慶長8年(1603)に山内一豊が高知城に移った事で廃城となります。余談ですが高知県はかつて東北地方の城を巡る際、再会した私の旧友の生誕地です。話によればこの浦戸に母方の実家があり、幼少期には坂本竜馬像の下で遊び、桂浜は遊泳場だったそうです。現在の桂浜は遊泳禁止になっています。その旧友の高知市内の有名観光地である「はりまや橋」について能書を添えます。別名「がっかり橋」と言う訪れた人からの悪名を持つ橋ですが、これは「純信とお馬」の逸話(悲恋)を知らない人の台詞で、僧だった純信が愛したお馬に簪をこの「はりまや橋」にあった小物商で購入したのを見られてしまい、やがて町の噂となり二人はそれから逃れる様に駆け落ちをします。しかしそれも見つかり二人は裁きを受け引き離され再会を許されぬまま互いが生涯を終える、と言う逸話であり実話があるのです。この話は土佐の「よさこい節」の歌詞の一部となり、「はりまや橋」だけが一人歩きをしてしまった結果、逸話は広まらずに「はりまや橋」が何か視覚的に風情のある場所と誤解される様になってしまったようです。現在全国に波及している高知市と札幌市の融合型祭り「YOSAKOIソーラン祭り」のYOSAKOIとは、元は(現在も)土佐(高知市)にある「よさこいお祭り」だと知らない方が大勢いるのと同じ事の様です。
羽衣石城 (鳥取県東伯郡)
鳥取城を後にして、まだ時間があるので折角だから砂丘でも見に行こうと海岸方面に走りだしました。20分くらいで目的地の砂丘海岸に着きましたが、日曜ということを忘れていました。砂丘の山というより人の山でごった返している光景は、デリケートな私にはこの喧騒の中に入る気分にはなりません。直近には最近脚光を浴びている砂の美術館があるのですが、これまた混雑で車も止められず、次の予定地を考えれば待つ余裕もなく、今回は残念するしか仕方がありません。これも旅の醍醐味と解して羽衣石城(うえし城)を目指す事にします。午後2時過ぎに砂丘から倉吉方面に向かいますが、距離で約40キロありかなり厳しい条件です。途中で白兎神社の立ち寄りや燃料の給油をした為、想定より時間を超過してしまい、羽衣石山の中腹にある駐車場に着いたのは4時を過ぎていました。掲示板には頂上まで徒歩600mと記されています。普通ならば何の問題もないのですが、長時間の運転と三ヶ所の城巡りの疲れでの登山となると、最低70分の行程を考えなければならず、決断にかなり勇気がいります。それに人気もなく日暮れも近くと、悪条件が重なり涙涙の撤退です。麓から少し離れて見上げて観ると、微かに模擬天守が見えます。羽衣石城の歴史は貞治5年(1366)南条貞宗が築城した城で、大永4年(1524)の「大永の五月崩れ」(山名方の羽衣石城を含む多数の城が、この年一朝にして尼子氏に攻撃された)によって落城しました。その後この地は尼子氏の領となり、南条宗勝は山名氏の元に逃れました。しかし近年の研究ではこの「五月崩れ」が否定されています。 天文15年(1546)南条宗勝は武田国信の要請を受けて尼子方を離れると一旦羽衣石城から退去しますが、永禄5年(1562)毛利氏の支援を受け復帰します。天正3年(1575)宗勝の死亡により南条元続が家督を継ぎ、 天正7年(1579)には毛利方に背き織田氏配下の羽柴秀吉方につきます。天正9年(1581)毛利方の吉川元春(きっかわ元春)は馬ノ山(古墳群で有名)に布陣し、嫡男の元長に羽衣石城を攻めさせます。鳥取城を落とした羽柴秀吉軍は、馬ノ山で吉川元春軍と対峙しますが両者共に退き、天正10年(1582)元春配下の武将の山田重直の手により落城しました。その後天正12年(1584)織田氏と毛利氏の和睦が結ばれ、伯耆国(ほうきの国)東3郡が南条氏の領となり、天正19年(1591)に元続の病死しにより南条元忠が家督を継ぎます。しかし 慶長5年(1600)西軍についた元忠は東軍に敗れ廃城となりました。平成13年(2001)に羽衣石城は県史跡に指定されています。見どころのコメントは差し控えます。アクセスはJR山陰本線「松崎」駅からバス「松崎線倉吉行」長和田(なごうだ)下車、タクシーで約20分、徒歩35分