山梨県甲府市 JR甲府駅前 武田信玄像
鹿児島情景 (鹿児島県鹿児島市)
2012/12/10〜3日間の鹿児島に訪問しました。もともと鹿児島行きは息子の希望で桜島やパワースポットに一度行きたいという事で便乗しました。旅費は私の提供でしたが・・・。それでも私も鹿児島が初めてでしたし、名城100選に鹿児島城(別名鶴丸城)がありますので行く事にしました。駅に着いたのが13時でしたので早速、桜島がよく見える城山展望台に向かいました。鹿児島の中心部と桜島が一望できる場所で東洋のナポリと称されています。駅からタクシーにて西郷隆盛銅像前で下車し、徒歩で登頂しました。約15分で登れます。天気にも恵まれ流石にいい眺めでした。サプライズ日本に名所は沢山ありますが見応えありました。

鹿児島城跡 (鹿児島県鹿児島市)
本題の鶴丸城こと鹿児島城跡は、江戸時代初期(1062)に島津氏によって築かれた上山城跡の城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城になりますが、この理由から平城や山城とする説もあるようです。城山は南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城でしたが、後に島津氏に明け渡され城山の東麓に屋形を築いて居城にしました。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれましたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評しているようです。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされていますが、その代り島津氏は中世式の山城を各地に築き、113区画をそれぞれ家臣達に守らせる外城制度を行っていたとされています。明治7年(1874)に焼失した後は再建される事はなく、1901年以降城跡は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後には鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、そして現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。島津氏に少しふれますと、築城は島津義久(よしひさ)の婿養子の忠常(家久)が家督を継ぎ「人を持って城となす」の信念を貫き天守閣は造らず、書院造りの華麗な建物が立ち並んでいたそうです。見どころは、黎明館(れいめい館)、鶴丸城跡、西郷隆盛銅像、篤姫像。アクセスはJR鹿児島「中央駅」より市内観光地巡回バス「西郷銅像前」下車徒歩約5分
仙厳園 (鹿児島県鹿児島市)
鶴丸城の別邸として造られた仙厳園(せんがん園)は桜島を見立てた築山(つき山)に、錦江湾(鹿児島湾)を池に見立てた鹿児島を代表する庭園で、万治元年(1658)19代島津光久(みつひさ)によって築かれた別邸です。幕末の名君28代島津斉彬(なりあきら)がこよなく愛し、徳川将軍家に嫁いだ篤姫(あつ姫、天璋院)も足を運びました。南の玄関口といわれた薩摩の歴史や風土にふさわしく、中国文化の影響が色濃く見られる事が仙巌園の特色の一つです。さらに温帯と亜熱帯の境に位置する事から、数多くの珍しい植物が植えられています。また島津斉彬はこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所や、ガラス工場を建設する等の近代化事業(集成館事業)を起こしました。安政4年(1857)には園内の石灯籠にガス管をつないで灯火として用いた事からも、日本のガス灯発祥に於けるルーツの一つとして挙げられる場所にもなっています。2012/3/12に訪れた仙巌園からは桜島がよく見え、時たま噴煙をあげる光景は園内の景観とよく融合し圧巻でした。ここの庭園の中には薩摩切子等の御当地名産品が多く販売されておりお薦めします。見どころは仙巌園、尚古集成館(しょうこしゅうせい館)。アクセスはJR鹿児島「中央駅」より市内観光地巡回バス「仙巌園前」下車徒歩約1分
岡崎城 (愛知県岡崎市)
岡崎城は愛知県岡崎市康生町にあったお城です。ここは徳川家康の生誕地でもあります。別名を龍城とも呼ばれています。築城は康正元年(1455)頃で西郷頼嗣(よりつぐ)が創建しましたが松平信光に敗戦し、松平清康が居城として改修を行いました。しかし松平清康に続いて松平広忠も家臣の謀反によって殺害され、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれました。天文11年(1542)に松平元康(後の徳川家康)はこの岡崎城内で誕生しました。幼い時期は織田家や今川家の人質生活を送りましたが、19歳の時今川義元が桶狭間の合戦で敗死した為、松平元康は岡崎城を取り戻し入城したのです。名を徳川家康と改め天下統一への基礎を着々と固めていきました。元亀元年(1570)本拠地を遠江国(とおとうみ国)浜松に移し、嫡男信康を城主としました。天正7年(1579)に謀反の疑いから信康を喪ったため、重臣の石川数正に続いて本多重次が城代を務めました。秀吉の天下になると家康は関東に移封し、秀吉の家臣田中吉政が城主となり城を拡張して強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備しました。また城下町の整備も積極的に行い、岡崎郊外を通っていた東海道を岡崎城下の中心を通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」と言われる道に整備し、現在の岡崎城と城下町の原型を造りました。関ヶ原の合戦以降に徳川氏譜代の重臣である本多康重が上野国白井より5万石で入城し、以降徳川政権下では家康誕生の城として重要視され譜代大名が歴代の城主を務め、なかでも本多家が廃藩置県まで100年以上守ってきました。全体的に纏まったお城で四季の景観は紅葉が長いので楽しめ、春には桜も綺麗です。見どころは天守閣城内苑、三河武士のやかた(家康館)、家康銅像、アクセスは名鉄名古屋本線「東岡崎」駅より徒歩約15分。東名岡崎ICより約15分
挙母城跡 (愛知県豊田市)
2013/04/03 たまには近郊の歴史や散策も必要かもと思い、豊田方面に車を走らせました。以前に豊田にも復元櫓の模擬城(挙母(ころも)城)があると聞いた事があり捜してみることにしました。長久手から153線(飯田街道)を北東に約20分で標識があり、豊田文化会館と豊田美術館の狭間に可愛い櫓が建っていました。慶長9年(1604)武蔵国から三宅康貞(やすただ)が先祖ゆかりの地である三河国加茂郡衣(ころも)に入封し、衣藩1万石がはじまりました。三宅氏はそれまでの衣城を廃し、現在の豊田市元城町付近に陣屋を構え矢作川の水運と岡崎藩、尾張国、信濃国への交通の要をおさえる為に陣屋を中心に七州町を形成しました。幕府領の時代は陣屋が廃止されましたが、天和元年(1681)陸奥国石川藩より本多忠利が衣に1万石で再び立藩しました。本多忠利は徳川家康の家臣で本多忠勝のひ孫にあたり、幕府でも寺社奉行を勤めていました。また近隣の伊保藩、足助藩の藩主も忠利の兄弟が治めており、西三河における本多氏一族の一体的支配の動きの中の立藩だったとも言えます。本多氏は「衣」を「挙母」と表記する事を定め城下町の整備に努めました。その後寛延2年(1749)上野国安中藩より内藤政苗(まさみつ)が挙母へ領地替えとなりました。2代藩主内籐学文(さとふみ)は挙母城を童子山(どうじ山)に移し、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「遠江国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、別名「七州城」とも呼ばれました。以後内藤家は明治維新までの約120年間に渡り挙母の地を支配する事になります。因みに幕末期の4代藩主の内籐政成(まさしげ)、5代藩主の政優(まさひろ)は養子で、彦根藩主の井伊直中(なおなか)の5男、8男にあたり、大老の井伊直弼は14男で彼らの弟にあたります。見どころは七州城復興隅櫓、隣接豊田美術館。アクセスは名鉄三河豊田市駅から徒歩約20分、東名豊田ICから国道155号経由約10分
(豊田美術館敷地内にあります)
足助城跡 (愛知県豊田市)
挙母城(ころも城)を後にして約40分で足助城(あすけ城)に着きました。昼時なのか拝観者は3人しかいませんでした。足助城は、愛知県東加茂郡足助町足助字真弓での所在地として長かったのですが2005年の市町村合併で新たに豊田市に加わることになりました。紅葉の観光地としても有名で香嵐渓(こうらんけい)と呼ばれています。足助城は標高301mの真弓山の山頂を本丸としており、四方に張り出した尾根を利用した連郭式の山城です。足助城は別名を真弓山城(まゆみ山城)とも呼びますが、他に「松山城」「足助松山城」とも呼ばれていました。鎌倉時代が背景で足助氏が築いた「足助七屋敷」の一つとも伝えられています。発掘調査での遺構からは15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられています。鈴木氏は、忠親、重政、重直、信重、康重と五代わたり続きます。16世紀に入ってから岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7年(1564)以降は松平氏のもとで高天神城の戦いなどに武勲をあげています。天正18年(1590)5代目康重の時、徳川家康に従って関東国に入国した為足助城は廃城の道を辿りました。沿革の中でふれていませんが、元亀2年(1571)に甲州の武田信玄2万5千の兵に攻められ一時は武田方の下条伊豆守信氏を城代としました。信玄没後家康の長男の岡崎三郎信康が武田勢を追い払い鈴木氏を復活させました。余談ですがお城の話で詳細や知らない名称そして人物の登場では興味が湧かないのが現実でが、築城者の人脈や名勝負などが出てくると興味が出たりする事もあると思い少しふれてみました。登城はかなり勾配がきつい坂道です。道路の幅3.5mで対向車に十分注意しながら麓から車で約10分、徒歩約30分。見どころは本丸、高櫓、物見矢倉。アクセスは名鉄「浄水駅」より、とよたおいでんバス「一の谷口」から徒歩約40分。猿投(さなげ)グリーンロード「力石」より153号線足助城まで約25分
丸岡城 (福井県丸岡市)
3/26鉄道を利用しての福井県は丸岡城を目指しました。朝から雨模様にも負けず傘を片手に我ながらよくやります。天気予報では台風なみの風と報ぜられていたので、道中十分警戒しながらの城巡りになりました。丸岡城は日本最古の天守閣現存なので非常に楽しみにしていました。やはり予想通り雲行きが悪くJR福井駅は既に雨でした。駅からは京福バスで約40分、一時の雨しのぎになりました。現地バス亭の傍には桜祭りと書かれた看板があり、そして城郭への階段が見えてきました。いよいよ待ちに待った瞬間です。うーん成程古そう!天守閣の階段もかなり急な造りでロープを蔦っての登りで、年配の方は少し大変です。え、「私」十分大丈夫?さて丸岡城は福井県坂井市丸岡町霞にあった城で、別名霞ヶ城とも呼ばれます。江戸時代には丸岡藩の藩庁でした。霞ヶ城の名称は幾つかの城にも類似があり、山形城や二本松城もそう呼ばれています。天正4年(1576)織田信長の家臣で越前のほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊(かつとよ)が築城し、その後居城だった豊原寺城(とよはらじ城)から移りました。織田信長から豊臣政権を経て関ヶ原の合戦以降に徳川家康の領地となり、丸岡藩として成立したのは寛永元年(1624)本多成重(ほんだなりしげ)が福井藩より独立し大名に列した時です。元禄8年(1695) 4代本多重益(しげます)の治世に丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となりました。代わって有馬清純(きよすみ)が越後国糸魚川藩より5万石で入城し、以後は有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えました。運よく桜も満開で良い時間を過ごせました。しかし帰路は予報通り強風によりJRの運行に支障をきたし、夜遅くの帰宅になりました。教訓天気予報を馬鹿にしてはいけません。見どころは何と言っても天守閣、歴史民俗資料館、丸岡公園。アクセスは北陸本線「福井駅」より京福バス「丸岡城」まで40分
高遠城跡 (長野県伊那市)
天下第一の桜と称されている此処は長野県伊那市高遠町に訪れました。2013/04/04天下一と云うのは恐らく全国観光協会・日本経済新聞が選定及び評価の基準に達した上位3の中に入選している事と日本さくらの会「さくら名所百選」に選ばれている事等が挙げられるのでしょう。生憎の天気と開花には少々早く、僅かな桜しか観賞する事が出来ませんでした。お城ですが三峰川の断崖を背にした建造物は殆ど残っておらず、石垣や堀そして土塁だけが当時の雰囲気を伝えています。その中で空掘に架かっている桜雲橋(おううん橋)と問屋門が景観の良い場所の様に思えます。沿革は南北朝の頃よりその支族である高遠氏が一円を治めていましたが、天文年間(1532~1555)に武田信玄の侵略により、その旗下に属しました。武田氏による高遠支配は35年間続き、城主は諏訪の武田勝頼や仁科五朗盛信(にしな五郎もりのぶ)など信玄の近親者が就いていました。武田氏の支配も盛信が織田軍の甲州攻めで敗れ幕を閉じましたが、高遠城に於ける他の大きな史劇は、徳川の太平の世の江戸時代中期に起こった江戸城大奥を揺るがす事件の張本人絵島事件です。絵島は、徳川家継の生母の月光院に仕える女中の筆頭でしたが、主人の名代として徳川家宣(いえのぶ)墓参の帰路に芝居見物で門限に遅れ、幕府役人の追及を厳しく受け事の真相から関係者70名以上が罰せられました。当の絵島は島流しと云う御触れのもと預かり先になったのが高遠藩だったのです。そして絵島は約30年間を屋敷内に軟禁され一生を終えました。見どころは高遠城址公園、資料館、絵島囲い屋敷、桜時期(タカトオコヒガンザクラ)。アクセスはJR伊那市駅「伊那北駅」よりバス約25分。伊那ICよりR361経由30分
甲府城跡 (山梨県甲府市)
高遠城を後に武田氏の本拠地である甲府へ足を運ぶ事にしました。伊那から岡谷を南下し甲府昭和ICを目指し、休憩を入れ約3時間で到着しました。甲府駅前には武田信玄公の座像が観光客の目をひと際惹いて、今にも立ち上がりそうな形相でした。甲府城(別名舞鶴城)は駅から徒歩約5分位で舞鶴城公園に着きます。高遠城での桜は座念ながら満開前でしたが、此処甲府城では満開の桜を堪能しました。山梨県が誇る信玄の話になりますが、大永元年(1521)武田信虎(のぶとら)の嫡男として甲府で生まれ、晴信と名乗るようになったのは室町幕府将軍の足利義晴(よしはる)から一字を拝領してからです。晴信は領民の為父親を追放すると言う、未曽有のクーデターを起こし武田氏の当主交代が成されました。その後領地拡大の為に諏訪頼重(よりしげ)を滅ぼし、信濃守護小笠原長時(ながとき)と村上義清(よしきよ)を追放する等、天文11〜23年の永きに亘り実質上信濃を制圧していました。更に越後の長尾景虎(上杉謙信)との5回に及ぶ川中島の合戦で上杉氏の南下を食い止め、信濃をほぼ手中に入れました。晴信は信玄と号してからも勢い止まらず、上杉領の上野国西部駿河の今川氏真(うじざね)を追放し、北条氏康(うじやす)や徳川家康と戦い、勢力を東海地方にまで拡大しました。こうして信玄の戦歴は53歳で病死するまで続きますが、この甲府城は天正10年(1582)武田氏が滅亡後織田信長を経て徳川家康が領有し、豊臣政権下では城地として取り上げられただけで本格的な築城は慶長5年(1600)頃の事になります。城主としての記録は加藤氏、浅野長政・幸長親子、徳川家康、柳沢吉保と続き徳川幕府の太平期を迎え、明治維新に至っては板垣退助の無血入城を経て明治6年に廃城となりました。見どころは舞鶴城跡公園、資料館、近隣甲府歴史公園。アクセスはJR中央本線「甲府駅」南口から徒歩約5分
水戸城跡 (茨城県水戸市)
2013/04/09に東北在住の旧友と車で訪問する事になりました。33年ぶりに再開しての懐かしさと暇を持て余しての旅と云ったら失礼になりますが、何はともあれ協力して頂いたことに感謝しています。道は水郡線沿いに約3時間行程になりました。偕楽園の方がすっかり有名になっていますが、水戸城は鎌倉時代に馬場資幹(すけもと)が築城して以来、馬場氏が200年以上居城として来たお城です。しかし室町時代に江戸通房(えどみちふさ)に攻略され、更に天正18年(1590)には佐竹義宣(よしのぶ)が江戸氏を滅ぼし入城しました。これは佐竹氏が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、北条方に付いた江戸氏を敗走させた出来事です。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に於いて佐竹氏は曖昧な態度を取ったため勝者である徳川家康に水戸より秋田に追放され、その後水戸城は徳川政権下で武田信吉(のぶよし)、徳川寄頼宣(よりのぶ)、徳川頼房(よりふさ)と城を継ぎ徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)の水戸藩を盤石にしました。9代藩主徳川斉昭(なりあき)の時に藩士育成の藩校として弘道館を開館し、さらに日本三大名庭園(後楽園、兼六園、偕楽園)である偕楽園を城の西に開きました。幕末期には水戸藩の内紛(天狗党と保守党)等によって多くの建物が焼失し、現在水戸城で残っている僅かな薬医門(橋詰門)と藩校や土塁と空堀がやや静寂な情観を漂わしています。ご存知の水戸黄門こと水戸光圀公は徳川頼房の子として2代目藩主でした。見どころは弘道館、橋詰門(画像上)、隣接する梅花期の偕楽園、但し城跡としては橋詰門と空堀くらいで城郭らしき建造物等は殆ど残っていません。アクセスはJR常磐線「水戸駅」から徒歩約8分