大分県杵築市 杵築城跡
長篠城跡 (愛知県新城市)
長篠の戦いで有名な長篠城跡です。皆さんもよくご存知かとは思いますが、織田信長は桶狭間の戦いにより天下に名を轟かせ、圧倒的な実力をまざまざと見せつけました。かつては武勇・知略とともに恐れられ、越後の謙信と互角に渡り合った甲斐の武田軍団も嫡男勝頼の昔ながらの騎馬・刀剣戦は、信長軍の明智光秀率いる鉄砲隊の前になすすべもなく敗退したわけですが、此処はそれ以前に徳川氏と武田氏の領土争奪戦の舞台となった所で、戦国末期には奥平氏が武田軍の猛攻撃を凌いで籠城した城です。救援を求める為、鳥居強右衛門が決死の覚悟で織田・徳川軍に快諾を得ましたが、帰途上武田軍に捕まり磔刑になりました。織田・徳川軍は設楽原へ兵を進撃させ決戦の舞台となります。その後の結末は武田家の衰退・没落となるのです。革は、奥三河の土豪菅沼元成が創築。現在は僅かですが記念碑と城跡が残っている程度です。見どころは歴史資料館(有料)があり歴史が好きな方以外の方も是非お立ち寄り下さい。秋の紅葉がお勧めで、既述の歴史資料館とは別の設楽原歴史資料館(有料)も近くにあり火縄銃史も拝観できます。アクセスはJR飯田線「長篠城駅」下車、徒歩約8分。東名高速道路「豊川IC」より約19km。
清州城 (愛知県清須市)
今話題になりつつある清州会議の清州城です。清州会議とは端的に言うと、信長の死後の後継者問題と領地再配分です。築城は室町時代前期で尾張・遠江・越前守護の管領、斯波義重(しばよししげ)が建てたと云われています。尾張守護所である下津城の別郭にありましたが、織田家の内紛で下津城が焼失した為清州に移転したそうです。尾張国の中心地となった清州は、一時期「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は、常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城として尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能しました。家督は信友が継いで城主となりますが、主家である斯波義統(しばよしむね)を暗殺した事で信長と手を結んだ信光に殺されました。信長は信行を謀殺し信賢をも追放し、信長が実質上の支配者となりました。信長は桶狭間の戦にこの清州城から出陣しました。また徳川家康との同盟もこの地で行われました。信長は小牧山城に移動し、美濃国斎藤氏に備えるために清州城を番城にしました。信長の死後信雄が家督を継ぎますが、秀吉に逆らった為豊臣秀次の領内に吸収されました。その後福島正則が入城し、関ヶ原の戦以降勝利した徳川家康の四男・九男が入城し本拠地としました。徳川家康は清州城を名古屋に遷府させ城下町も全て変えたそうです。現在の天守は平成元年に模擬天守として建てられました。川と鉄道に挟まれた空間に朱色が映える橋の欄干と天守閣が凛々しくそびえ立っています。見どころは隣接した清州公園に信長銅像と、天守閣内資料館があります。アクセスは名鉄名古屋本線「新清洲駅」から徒歩約15分。JR東海道本線「清洲駅」から 徒歩約15分。城北線「星の宮駅」から徒歩約20分。東名阪自動車道「清洲東IC」から車で約5分


駿府城跡 (静岡県静岡市)
静岡県静岡市葵区(駿河国安倍郡)にあるお城です。室町幕府から駿河守護に任じられた今川氏が築き、館を中心に領国支配として君臨して行く訳ですが、隣接する甲斐の武田氏が同盟を破棄し駿河に侵攻し、その為に今川氏は駆逐してしまいました。駿府城が実際世の中に出てくるのは、1585年で信長が今川義元を討ったあと家康が支配するようになってからです。時代を経て関ヶ原の戦を制した徳川家康が隠居した場所が駿府城なのです。1607年から改築を行い城造りの名手藤堂高虎に縄張りを任せました。徳川家康はこの地で没しその後天守が焼失したが再建はされませんでした。見どころは駿府公園、巽櫓にある資料館、大手御門の虎の口です。アクセスはJR東海道本線、東海道新幹線「静岡駅」より徒歩約10分。
掛川城 (静岡県掛川市)
室町時代中期の文明(1469年 - 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したお城と伝えられています。駿河守護の今川氏が武田軍に追われ逃げ延びた所でもあり、主君を守る朝比奈氏もよく戦い容易に落城しませんでした。しかし多勢に無勢でもあり和議で主君を守りました。朝比奈氏は開城後主君今川氏と共に相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入城しました。その後豊臣政権下で山内一豊の居城となり、大改築を行い1590年〜1600年にも及びました。そして掛川の城下町は大いに繁栄することになります。山内一豊は土佐に転封となり、徳川政権下が支配する多くの城主が入城する中、1745年に太田道灌の子孫太田資俊が入城しその後明治時代まで治めることになります。掛川城に関ヶ原の戦以前に密書が入ったという逸話があり、一豊の妻が家康方に味方するよう進言したと云われています。見どころは二の丸御殿、春の桜、秋の紅葉、城下町の歩道橋から眺める天守閣。アクセスはJR東海道本線、東海道新幹線「掛川駅」北口から北へ徒歩約7分
安土城跡 (滋賀県近江八幡市)
滋賀県近江八幡市安土町に位置する山城です。浅井・朝倉両氏を滅ぼし、武田勝頼を長篠の戦いで撃破した織田信長が天下布武を唱える最大の大名に登り詰めた証です。しかし目的はあくまでも岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していた事から、「越前・加賀の一向一揆に備える為」あるいは「上杉謙信への警戒の為」などと推察されています。勿論配下の位置づけにもその采配が窺えます。琵琶湖の玄関口には明智光秀の坂本城東海道と、北陸道の分岐点に羽柴秀吉の長浜城が陣取っています。五重七階の豪華絢爛な天主(天守の事でキリスト由来の言葉)は、信長の西洋に拘った新しい城だったかもしれません。しかし三年後に起きた本能寺の変で天下統一を見ることなく横死し、安土城も原因不明の火災で焼失してしまいました。現在は城跡だけで当時の面影は微塵もありませんが、映画の「火天の城」で紹介された華麗な造りは近隣にある安土城天主、信長の館の模擬天主と類似しています。城跡は山頂にあり徒歩約30分かかります。尚、資料館及び信長の館は車で5分位の所にあります。見どころは織田信長公本廟、羽柴秀吉邸址で100選スタンプは必ず登城しなければなりません。アクセスはJR東海道本線「安土駅」より各資料館までは徒歩25分。城跡まで約30分
彦根城 (滋賀県彦根市)
関ヶ原の合戦で軍功を立てた井伊直正が徳川家康から石田光成の佐和山城を賜りましたが、直正は中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い別の場所に居城を移す事にしました。しかし直正は古傷が癒えず1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ直継が幼いため家老の木俣守勝が先代の遺志を継いで琵琶湖に浮かぶ彦根山に彦根城の築城を開始しました。1606年に一部の工事が完了し、その後彦根城としてすべての工事が完了したのは1622年の事でした。井伊氏は1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至りました。 また15代藩主井伊直弼は、幕末期の江戸幕府に於いて大老に抜擢されるまでになり、日米修好通商条約に調印し日本の開国近代化を断行しました。その独断政権(安政の大獄)が国内の反対勢力に拍車を掛けあの有名な暗殺(桜田門の変)される運命になったのです。大河ドラマ「花の生涯」で井伊直弼の生涯を描いた作品は視聴率全話平均20.2%だったそうです。現在の人達はどう捉えているか分かりませんが、歴史には何が英雄で何が正義か判断は人其々の様です。お城の話から脱線しましたが、天守閣としては残存の天主で実戦的な城郭である。見どころは天守閣、彦根城博物館「玄宮園」、庭園です。アクセスはJR東海道本線「彦根駅」徒歩約10分
白石城 (宮城県白石市)
白石城は白石川の清流に沿って南蔵王を仰ぐ町、白石市にあります。その中心部の小高い丘の上にあり、寛治2年(1088)後三年の役で戦功を成した刈田左兵衛尉経元が白石の地に賜り、刈田氏と称してここに築城したのが始まりといわれています。天正18年(1590)には蒲生氏の所領となり、翌年城を大改築しその後上杉景勝の家臣・甘粕備後清長が入城しました。慶長5年(1600)徳川家康は会津上杉征伐の軍を起こし、伊達政宗は徳川方に呼応して白石城を攻略しました。関が原の戦いの後、刈田郡は伊達政宗が領有することとなり、青葉城の守りとして伊達家の重臣・片倉小十郎景綱を白石に入城させたのです。初めてこの武将の名前を耳にした方が居られる方もいると思いますが、意外と知名度が高く大河ドラマ「独眼竜政宗」「天地人」漫画・ゲーム・アニメとあらゆる歴史ジャンルに登場する程で当時の天下人豊臣秀吉も惚れ込む知者でした。「小十郎」の名は景綱の嫡男重長、そしてその重長の子景長も代々名乗り主君伊達家を支えました。見どころは天守閣、歴史探訪ミュージアム、白石出身の横綱大砲万右エ門の銅像です。アクセスはJR東北本線「白石駅」より徒歩約10分
小倉城 (福岡県北九州市)
九州に上陸と言う事で、まず玄関口である小倉城を訪問しました。名古屋から夜行バスで約9時間でしたが、残念ながらよく眠れませんでした。前置きは兎も角、3月19日で名古屋では全くだった桜が既に満開で実に良くお城に似合っていました。小倉城の歴史ですが戦国末期(1569)中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いた事から始まります。その後関ヶ原の合戦で功を得た細川忠興によって本格的に築城(1602)されました。忠興は城下町の繁栄のため商工業保護政策の実施や外国との貿易も盛んに取り組んだそうです。細川氏が熊本に転封後は播磨国明石から姻戚関係である小笠原忠真が入城(1632)し、九州諸大名監視という特命を将軍家光から受けていました。小笠原家は版籍奉還まで237余年に亘り家系を守りました。幕末時の長州征伐に加担し一時は失脚したものの、長州藩との講和で小笠原忠忱が家督を相続します。小倉城所縁の人、細川忠興の妻玉(ガラシャ)はキリスト信者のため非業の死を遂げ、小倉藩剣術指南役だった佐々木小次郎は巌流島にて宮本武蔵と決闘をしました。また、勝者宮本武蔵も小笠原藩との関係から小倉で数年過ごしています。因みに巌流島は下関に近い関門海峡に浮かぶ小島で、観光地として唐戸からフェリーが出ています。見どころは天守閣からの展望、資料館、小倉城庭園です。アクセスはJR「小倉駅」から徒歩約20分、JR西小倉駅より徒歩約10分
中津城 (大分県中津市)
慌ただしく移動をしている為か、歳のせいか小倉城に傘を忘れて来てしまいました。名古屋から移動する時は大雨だったので、ちゃんと準備して来たのですが・・・でも中津城は晴天でよかったです。中津城は豊臣秀吉の軍師であった黒田孝高が九州平定の為、豊前六郡12万3000石の領主として入国(1587)しました。ここで少し黒田孝高(官兵衛)を紹介しておきます。播磨国姫路に小寺氏の家老黒田職隆の嫡男(1646)として生まれました。家督を継いで姫路城代になりましたが、織田信長に謁見し秀吉の配下(1575)に入りました。鳥取城・備中高松城攻めと功を経て、大阪城築城にあっては普請奉行となり、秀吉の信頼も厚く四国征伐・九州征伐の先鋒を務めました。黒田氏が本格的に造営に入ったのは1588年頃からで、1589年には家督を長政に譲り如水と号しました。話は中津城に戻りますが、長政が福岡城に移封されてからは細川氏・小笠原氏・奥平氏と城代が替わりました。その奥平氏の先祖は長篠城の戦いで籠城する中、飢えをタニシで凌ぎ武田軍の猛攻激に耐え、援軍の織田・徳川軍を勝利に導きました。その故事に纏わる神社が本丸・上壇に在り祖を祀ってあります。奥平氏は1871年の廃城まで居城し15代155年間続きました。見どころは日本三水城(高松城・今治城)、資料館展示物。アクセスはJR「中津駅」より徒歩約15分
杵築城 (大分県杵築市)
大友氏二代親秀の六男親重は、(1250)鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘に封ぜられ竹ノ尾の高台に築城した。これがこの杵築城(きつき城)、木付の起源です。大友氏は地名であった木付を氏とし、その4代目頼直は世の中の乱れから要害堅固の台地に城を移築(1394)し城名を木付城と称しました。16代鎮直の時代に島津義弘の武将新納武蔵守勢の猛攻(1587)を受けましたが撃退しました。それ以来勝山城とも謂われるようになったそうです。その後六年の経過経て宗家大友義統は、朝鮮の役で豊臣秀吉の怒りに触れ大友氏は滅亡します。大友氏に従った木付氏17代統直も自刃入水し、この悲報は木付城の鎮直に届き夫婦ともども城内で自害しました。ここに344年間にわたる統治の幕が閉じられたのです。豊臣時代には太閤検地を行い寺社奉行の前田玄以が入りその後徳川政権下に於いても城主の入れ替わりが相つぎ、能見松平秀親が3万2千石で城主(1645)となり城を平地に移転しました。因みに元来木付城が杵築城となったのは、将軍家宣下賜の朱印文に木付の文字が書き違えられていた事で伺い改め杵築となりました。杵築城主は木付氏〜松平氏と10代に渡り明治4年(1871)に廃藩となるまで約622年間治藩統治が続きました。見どころは天守閣から海が眺望でき、城内をレンタル着物での散策が楽しめます。近隣に武家屋敷群やレトロ館等歴史的町並みを楽しめます。アクセスはJR日豊本線「杵築駅」よりバス25分280円 タクシー10分1620円