勝竜寺城 (京都府長岡京市)
2015/04/16今回の旅は時間を有効に使いたい為、公共交通機関を利用することにしました。休みの関係やむを得ないことですが、むしろ時間の短縮と旅費も安く、効率よく廻ることが出来ました。さて訪問先の勝竜寺城ですが、名古屋駅〜京都駅まで新幹線で約30分(5.070円)、そして京都駅からはJRローカル線で4区間(220円)先の長岡京駅で下車し徒歩で約10分と、お手軽と言っていいのか少し歩いた所にありました。雰囲気はお城というよりお屋敷です。京都らしい情緒ある庭園と池には鯉が悠々と戯れている姿は、旅人を癒しの世界に誘うか如きに映ります。歴史は、暦応2年(1339)に細川頼春(細川よりはる)が築城したと伝えられています。天正6年(1578)明智光秀の三女、玉(細川ガラシャ(伽羅奢))が細川忠興に嫁ぎこの城で過ごしました。その後の山崎合戦では、光秀がここに本陣を構えましたが、光秀とともに落城するなどした歴史とロマンを秘めた城です。平成4年(1992)に公園として復興し、市民の憩いの広場として親しまれています。堀や城門等を再現した日本庭園と、城関連の展示室と全国で初めてのアメニティ下水道モデル事業による下水処理水を送水した外堀があります。見どころは、勝竜寺城内資料館、勝竜寺、神足神社(細川ガラシャ所縁地)、長岡天満宮。アクセスは名神高速(大山崎IC)〜京都縦貫道(長岡京IC)下車後約10分。JR長岡京駅より徒歩約10分






伏見桃山城 (京都府長岡京市)
2015/04/16勝竜寺城で約1時間過し効率良く廻っているつもりでしたが、さすがに歳には勝てません。やはり休憩を若い人の1.5倍は取らなければ・・・です。再び徒歩で長岡京駅より京都駅まで戻り、そこで乗り換え目的地の伏見桃山に向います。乗り換えはJR奈良線で桃山駅まで4区間(200円)です。途中伏見稲荷を通過しますが、駅構内は観光客でごった返し状態でした。行かなくてよかったかもしれません。等と思っている間に、お目当ての桃山駅に到着です。駅からは徒歩を諦めタクシーを利用(750円)し7〜8分ぐらいの登り坂ですが、無理せず辿り着く事を優先しました。現在は伏見北堀公園と呼ばれているそうで、嘗てテーマパーク全盛期に造られた伏見桃山城(復興模擬城)を中心とした「キャッスルランド」の面影もなく、唯一残された模擬城だけが粛然と佇んでいます。城の外観に関しては訪れる観光客の記念撮影など、格好の景観として映りますが、残念ながら今は入館する事も出来ません。沿革としては、この伏見城は3度に渡って築城されましたが、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の文禄元年8月(1592)に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため、伏見指月((伏見しげつ)現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めました。このとき築かれたものを指月伏見城とし、その後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わっています。豆知識ですが、元和5年(1619)に廃城となりましたが、このときの建物や部材は二条城や淀城、福山城などに移築されました。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、そして現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになりました。見どころは、城郭、桓武天皇柏原陵、明治天皇伏見桃山陵。アクセスは京都から京阪線「伏見桃山駅」より徒歩約25分。近鉄京都線「桃山御陵前駅」より徒歩約25分。JR奈良線「桃山駅」より徒歩約20分
西尾城跡 (愛知県西尾市)
2015/08/11 あまり動きたくない今日この頃であり、ましてやこの猛暑にも拘わらず野外に出るのはどうかと思いますが、そろそろ腰を上げなければと行動を起こすことに致しました。朝7時に目覚め簡単な食事を済ませた後、午前8時長久手ICから出発し豊田東ICを経て西尾市を目指します。所要時間1時間半位で西尾市内に到着です。目的地となる西尾城は名鉄西尾駅から徒歩約15分で市の歴史公園として運営されています。早速城内を探索し訪れたのが、西尾城のシンボルとも言えそうな本丸丑寅櫓(丑寅の名前は北東の方位を意味)で、三重の建物の内部は非常に狭く人が出入するにはやや厳しいかもしれません。建物の高さは天守に次いで高く、外敵を察知するには絶好の地点だったと思われます。恐らく見張り台としての役割もあったと思われます。他に二の丸の表門である鍮石門(ちゅうじゃく門(真鍮の飾扉が由来))や天守台の復元石垣、そして旧近衛邸等観光客が愉しめるような空間を歴史公園として表現しています。歴史は、承久年間(1219〜22)三河守護に任ぜられた足利義氏(足利よしうじ)が城を構え西条城と名付けました。長男の上総介長氏(かずさのすけおさうじ)に西条城を、三男の義綱に東条城を与えました。長氏の母は義氏の側室であったことから家督を継げませんでしたが、地名に因んで吉良氏を称し十四代まで居城しました。西条城から西尾城への改名は定かではないようですが1557年頃に存在が認められているようです。その後永禄三年頃 (1560) 今川氏が牛久保城城主の牧野新次郎成定に守将をさせましたが、永禄四年五月には (1561) 松平方の酒井雅楽助正親(酒井うたのすけまさちか)が西条城主の荒川(吉良)義広と共に攻め落し、酒井正親が入城しました。天正十八年 (1590) 徳川家康の関東移封により、正親の子の重忠も武蔵川越城(現埼玉県の通称川越城)に移り、代わって豊臣秀吉の臣田中吉政が岡崎城に入り、西尾城を支城とし、三の丸の拡張など増築を行いました。徳川時代には、本多康俊に続いて松平成重、本多俊次、太田資宗が城主となります。明和元年(1764)に松平乗祐が入城後、五代続いて明治を迎えました。見どころは西尾資料館、旧近衛邸、天守台。アクセスは名鉄西尾駅より徒歩約15分(お薦め)。
丹後田辺城跡 (京都府舞鶴市)
2015/10/21早朝といっても、まだ日が昇っていない午前4時半です。おもむろに体を起こし、暫し頭に血流すること3分・・・予定はしていませんでしたが、折角の休日だし行くかあ・・と、決行!と思い立ち、軽装で車に飛び乗りいざ西へ旅立ちです。目的地は京都府舞鶴市西舞鶴にある丹後田辺城跡です。カーナビを設定する際、事前に調べたウェブサイト上のルートと異なっていたのですが、サイト情報を頼りに北陸自動車道経由を選択しました。長久手から名神で米原JCTを経て北陸自動車道へ入り、敦賀JCTから舞鶴若狭自動車道を利用して舞鶴西ICを下車といった行程です。早朝である事を考慮すると時間のロスはしたくはありません。しかしながら結局到着時間は9時ですが、慌てる旅でもないので・・無事に帰宅出来ればOKです。丹後田辺城跡の沿革は天正八年(1580)、丹後国は細川藤孝(ふじたか)、忠興(ただおき)親子の領国となります。細川氏は現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築きました。これ以後この田辺城は細川氏、京極氏、牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在でした。明治六年(1873)田辺城は廃城とされ、本丸付近は現在舞鶴公園となっています。また、「舞鶴」の地名は、田辺城の雅称としての舞鶴城(ぶかく城)に由来しています。逸話として、天正8年(1580)京都府は舞鶴に細川幽斉こと細川藤孝が築城した古城で別名を舞鶴城(ぶかく城)とも呼ばれています。 関ヶ原の戦いで東軍に属したため猛攻にあいました。落城に際して天皇をも巻き込んだと云われています。現在は警察署が門前を守っています。これは本当です。細川幽斎(藤孝)が織田信長から丹後国に封じられたのは1580年8月で、縄張りも細川幽斎(藤孝)自身が手掛けました。細川幽斎(藤孝)と言えば足利将軍家ゆかりの人物であり、古今和歌集の秘伝の継承者でもあります。 細川忠興の正妻は明智光秀の三女玉(たま、別名ガラシャ)であった事からも光秀の謀反に再三誘われましたが、1582年の本能寺の変の際にはその叛旗を翻した明智光秀の誘いを断り、隠居の上で田辺城に籠りました。更に、下って1600年7月、息子の忠興が徳川家康に従って会津征伐に従軍中に、石田三成に与した小野木重勝、前田茂勝ら西軍の軍勢1万5000騎が押し寄せました。落城必至という状況の中で、後陽成天皇の弟、八条宮智仁親王が古今伝授の途絶を危惧し、調停に乗り出したという話は有名です。結局は、八条宮智仁親王の調停を断るも、後陽成天皇による調停によって開城となりました。見どころは田辺資料館・彰古館「糸井文庫」の錦絵・心種園。豆情報、30km圏内に天橋立があります。アクセスは舞鶴若狭自動車道、舞鶴西IC下車10分。JR舞鶴線の西舞鶴駅下車より徒歩約4分。
出石城跡 (兵庫県豊岡市)
2015/10/21舞鶴市の田辺城を後に市内観光もなく足早に目標の豊岡市の南東部にある出石城跡を目指していましたが、道を間違い30分のロスが発生。最終的に市内を脱出できたのは、11時を過ぎてしまいました。国道175線を南下して福知山方面の分岐点を越えて、9号線で約3km西北行しますと右手に426号線があります。そこから約22km北上して482号線を左にとれば自然と目的地に到着します。いやはや大変でしたが、漸く着きました。12:30駐車場で400円支払いし観光します。町並みは、城下町の風情がそのまま保存されています。大袈裟に云えばタイムスリップしたみたいで、僅少の自称歴史家にとってまさに温故知新です。また、季節が織りなす暦花があり1年通して来る人を愉しませてくれるように思えます。更に出石焼の白磁の器に盛られた出石自慢の皿蕎麦も好評です。もともと信州上田城主の仙石氏が国替で、蕎麦職人を連れてきた技法がそのまま出石そばとして誕生したのが始まりで、現在50軒近くあるそうです。歴史は室町時代に山名時氏(やまなときうじ)が但馬を制圧し、その子時義(ときよし)が比隅山(このすみやま)に本城を構えたことにより、出石は但馬の中心として繁栄しました。その後の時義の孫、宋全(そうぜん、別名持豊(もちとよ))は応仁の乱を引き起こし、西軍の大将となりました。しかし戦国時代に入り、織田軍に攻められ比隅山城は落城、その後、有子山(こありやま)に城を移しましたが再び攻められ有子山城も落城しました。その後小出氏が領主となり山麓に平山城を築城、周囲に城下町が形成されました。元禄十年(1697)松平氏が移封されましたが宝永三年(1706)に信州上田の仙石氏とお国替えになりました。途中、仙石騒動により減封されたものの、仙石氏は七代に渡り出石藩を治め、明治に至りました。豆知識は幕末から明治維新にかけての三英傑(西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通)の一人である木戸孝允こと桂小五郎が出石に潜み営んでいた荒物屋跡(廣江屋)の記念碑や他にも潜居跡に小さな碑が残っています。見どころは出石城、有子山城跡、辰鼓楼、出石神社。豆情報は40km圏内に北には城崎温泉郷、南には2013/2/7に訪問しました今話題沸騰中の天空の城竹田城跡(下方「竹田城跡」ボタン)があります。出石城跡へのアクセスは京都よりJR山陰本線「特急きのさき」で「豊岡駅」、「江原駅」もしくは「八鹿駅」まで約2時間30分。前述駅より全但バスにて約30分で出石城下町。大阪よりはJR福知山線「特急こうのとり」同上の駅まで2時間30分。自動車では舞鶴若狭自動車道の福知山IC下車9号線北上、途中426号線に入り山道を北上します。助言一言「休憩を惜しむな!冬季は避けろ!」です。

京都府京都市 寺田屋跡
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寺田屋跡 (京都府京都市)
2015/04/16最後の訪問先は、JR桃山駅前で頂いた散策マップから誕生しました。伏見桃山城から駅を目指して歩いている時、ふと思い出したのが友人の言葉で、「お城以外にも郷土のお薦めスポットがあるなら、紹介してみたら」をヒントにマップを確認。ありました! 誰もが知っている幕末の志士坂本龍馬が宿泊していた、あの船宿「寺田屋」が近くにあるではありませんか。勿論、尊王攘夷を旗揚げに薩摩藩志士粛清事件もこの寺田屋です。第一印象は感無量で、お城より感動しました。所見は半世紀前に見たことがありそうな旅籠で、しかも天井が低く襖だけの間仕切りです。ここで本当に騒動があったとは想い難いのですが、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「竜馬の妻のお龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている復元です。寺田屋事件の歴史は、文久2年(1862)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件と、慶応2年(1866)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件があります。坂本龍馬暗殺事件の舞台とよく混同されやすいのですが、竜馬はお竜の機転により、又竜馬は高杉晋作より与えられた短銃で応戦し九死に一生を得たのがこの寺田屋です。暗殺事件があったのは坂本龍馬がこの事件の後に、寺田屋より居場所を移した近江屋ですが、その近江屋ですが現在は残念ながら碑しか残っていません。豆知識として日本3大酒造りの町としての一つが、この京都伏見です。他の2か所は兵庫県の灘と広島県の西條になります。見どころは、寺田屋内の資料館、近隣の伏見奉行跡、殉難九烈士の碑、月桂冠大倉記念館。アクセスは、京都から京阪線「伏見桃山駅」より徒歩約5分。近鉄京都線「桃山御陵前駅」より徒歩約5分。JR奈良線「桃山駅」より徒歩約10分。

越前大野城 (福井県大野市)
2015/11/05今回の目的地は、山城の中でも数少ない朝霧が掛かることで天空の城と呼ばれている福井県の大野城を目指すことにしました。今までに兵庫県の竹田城跡、岡山県の備中松山城、奈良県の高取城と登城するにはやや難所でしたが、大野城は比較的難易度が低そうなので問題ないと思います。自宅の出発は前回の丹後田辺城行同様に午前4時頃です。高速を使えば(1)長久手IC〜一宮JCTを経て東海北陸自動車道を白鳥ICに向うコース(2)長久手IC〜名神高速道を米原JCT経由して北陸自動車道で福井ICに向うコースがありますが、早朝出発で多少時間もあるので一般道で挑戦することにしました。勿論経費削減にも繋がります。先ずR302で清洲まで向いR22を岐阜方面に進行。途中R156に合流してそのまま白鳥へ向い白鳥からR158に変更して北西の九頭竜湖を目指します。時間の余裕があったにも関わらず、上手くいかないのが気まぐれ休憩です。なんと九頭竜湖付近に着いた時間は8時です。所要時間4時間掛かった割には残念ながら湖は霧のため全く視界0。湖畔に映る紅葉は微塵もございません。先を急ぎ雲海に浮かぶ大野城に期待しましょう。午前9時開館より30分遅れで目的地に到着。そこはなんと晴天青空高く、やや霞んで見えます。天空の城としての期待は裏切られましたが、山の頂上に毅然とした城郭を目にすることができて感謝です。標高249m 越前大野城、拝観料200円です御ゆるりと堪能して下さい。沿革は天正3年(1575)織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が、その翌年最初に居城とした越前戌山城(いぬやま城)の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築き始めたのが越前大野城の始まりです。築城に数年を要しまた。その後越前松平家が3代続いた後、天領(幕府直轄)となり、土井氏で定着するまで目まぐるしく城主が替わりました。城は安永4年(1775)に焼失し、寛政7年(1795)には天守を除いて再建されましたが、残念ながら明治維新後に破却されました。天空の城と言えば兵庫県朝来市にある2013/2/7訪問の竹田城跡(下方「竹田城跡」ボタン)がありますが、2014年に有志による「ラピュタの会」が結成され「天空の城 越前大野城」の知名度向上に努めています。また近隣には過去2013/4/18に訪ねた一乗谷遺跡(下方「一乗谷城跡」ボタン)があります。見どころは、雲海に浮かぶ越前大野城(11月〜4月の気象条件)、歴史資料館。アクセスはJR越美北線「越前大野駅」下車、ふもとまで徒歩約15分。北陸自動車道道「福井IC」から国道158号を東へ約1時間。