永平寺 福井県吉田郡永平寺町
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永平寺 (福井県吉田郡永平寺町)
2015/11/05晴天の大野城を後にして車で走ること1時間、福井県の観光名所としては欠かせない、恐らく8割以上が訪れるであろう、曹洞宗大本山永平寺に到着しました。とは云っても小生は恥ずかしながら無宗派です。然し宗教の信仰に分け隔たりを作る必要はないので、全ての神様や仏様を信仰される人達に、厳粛に敬意を払う気持ちで訪問させて頂きました。歴史は今から約770年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開かれた坐禅修行の道場です。道元禅師は正治2年(1200)京都に生まれ14歳の時、比叡山で出家し24歳の春には中国に渡り天童山の如浄禅師(にょじょう禅師)について、厳しい修行をされてお釈迦様から伝わった「坐禅」という、正しい仏の教えを受け継がれて日本に帰られました。初め京都に道場を作りましたが、寛元元年(1243)波多野義重公の要請もあり越前の国に移られ永平寺を開かれたのです。現在は曹洞宗の大本山として僧侶の育成と檀信徒の信仰の源になっています。豆辞典として、波多野義重は鎌倉時代中期の武将で波多野氏の一族です。父は波多野忠綱(忠経とも)で初名を宣政と言いました。北条重時の娘を妻とし、重時の被官として活躍しまた。義重は日本曹洞宗の開祖道元と早くから親交があり、深く帰依してその活動を援助し、地頭として所領を持っていた越前国志比荘に招聘(しょうへい)し、土地を寄進して永平寺の建立に貢献しました。現在、彼の子孫は曹洞宗の檀家筆頭に位置づけられています。所見は旅の疲れが癒され静寂感の中に溢れる憩いがあります。行く価値は十分ありました。見どころは七堂伽藍(しちどうがらん)、傘松閣(さんしょうかく)の絵天井大広間、瑠璃聖宝閣(るりしょうぼうかく)。アクセスはJR福井駅から、えちぜん鉄道勝山永平寺線にて「永平寺口」駅下車、京福バス(福井-永平寺線)車で約15分。北陸道福井北ICより約5分 JR福井駅よりタクシー30分。







竹中氏陣屋跡 (岐阜県不破郡)
2016/03/05朝、寒暖の差を感じつつそろそろ冬眠から抜け出さないと身体が鈍ってしまうと思い、出かけることにしました。目的地は岐阜県不破郡垂井町にある竹中半兵衛所縁の地です。高速を使って長久手〜関ヶ原IC約1時間の行程です。因みに長久手から垂井まで殆どナビの奴隷と化し、頼もしい味方ではありますが私がロボットになっている様でもあります。現地では一応垂井町役場に立ち寄り竹中氏陣屋跡を再確認しました。現地は岩手小学校近隣で現存する木造白壁塗りの櫓門、頑丈な門扉、そして門に入って正面にある目隠しの石垣、濠などが当時の面影を留めていると云われています。個人的な所見から云えば華やかな城に比べて、此処の風景は正に戦の臨場感があります。歴史は岐阜県不破郡垂井町(美濃国不破郡岩手)にあった江戸時代の陣屋です。安土桃山時代には岩手城と呼ばれていましたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため城は陣屋と呼ばれるようになりました。別名は竹中陣屋や岩手陣屋とも呼ばれています。羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治(竹中半兵衛)の子である竹中重門が築いたものですが、敷地を囲む大規模な堀(水堀等)と石垣などもあり、世に言う陣屋というものより小規模な城と言ったほうが正しいのかもしれません。元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(ぼだいざん城、別名岩手山城)でしたが、平時には不便なことから、麓に岩手城として築いたのが此の竹中氏陣屋です。竹中半兵衛の人物像については、豊臣秀吉の軍師として名を天下に知らしめた美濃生まれの戦国時代の武人です。正式名は竹中重治ですが、通称竹中半兵衛と呼ばれていました。竹中遠江守重元の長子であり、20才で斎藤竜興(たつおき)の居城稲葉山を陥しいれ、永禄10年に織田信長の配下である木下秀吉(豊臣秀吉)の謀将となりました。重治は武略に於いて当代無双と称され兵道の奥義を秀吉に伝え、軍事に多大な貢献をしました。天正7年(1579)36歳に没しました。法号は深龍水徹(しんりゅうすいてつ)と言います。半兵衛の墓は兵庫県三木市平井にありますが、この禅幢寺にもあります。長男重門が菩提を弔う為、三木より移葬したそうです。見どころは竹中氏陣屋跡、半兵衛の墓(禅幢寺(ぜんとうじ))、菩提山城跡、菁莪(せいが)記念館。アクセスはJR東海道本線垂井駅よりタクシー15分。名神高速関ヶ原IC下車365線を北上し、21バイパスを経て長畑交差点より約10分。
長浜城跡 (滋賀県長浜市)
2016/03/05竹中半兵衛ゆかりの地、岐阜県の垂井町を後にして次の目的地は滋賀県の長浜城を目指すことにしました。ナビを再設定して関ヶ原ICから北陸自動車で長浜に向います、ここでサプライズを発見しました。関ヶ原と云えば天下分け目の戦い。東軍勝利の最中、薩摩藩の副将島津豊久が最後まで奮戦した烏頭阪(うとうざか)を見つけました。此処は名将島津義弘を薩摩に帰還させる為に捨て奸(すてがまり(追撃軍に対し捨て駒を放ち時間稼ぎをしながら大将を逃す、トカゲのしっぽ切りの様な戦法))で戦った場所だそうです。そう言った場所でもある訳ですが、流石に「天下分け目の関ケ原の戦い」が繰り広げられた地で至る所に多くの史跡が点在しています。この地には改めて訪れる事とし、従い今回は画像も省略しました。さて、いよいよ長浜に向かいます。その滋賀県長浜市の目的地でもある長浜城跡は長浜ICからは約15分で着きますが、花粉の影響か鼻に少し違和感があるので途中ドラックストアーに立ち寄り薬を調達しましょう。長浜城跡は琵琶湖の東岸北部にあり、湖岸道路や湖からも眺められる豊公園(ほう公園)の中に佇んでいます。城は1983に犬山城や伏見城をモデルにした模擬城として復元されたもので、2層の大屋根に望楼をのせた初期天守様式です。現在長浜城歴史博物館として運営されています。館内は5階の望楼以外全てに展示物があり資料等充実しています。歴史は天正元年(1573年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜と改名しました。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城したようです。天正10年(1582年)本能寺の変の後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした。そして勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城しますが、同年末には織田信長亡き後の天下人として対立した勝家と秀吉ですが、結局は賤ヶ嶽の戦い(現在の長浜市の賤ヶ嶽付近での戦い)で秀吉に攻められ勝豊は城ごと降伏し、秀吉が信長後の天下人にとして確立をします。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後は、山内一豊(土佐藩初代藩主)が入り6年間在城しました。天正13年11月29日(1586年1月18日)に起こった天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢(よね)らが死亡しました。その後、慶長11年(1606年)に内藤信成、そして信正が長浜藩としての城主になりますが、大坂の陣(大坂夏の陣、冬の陣)の後の元和元年(1615年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城となりました。豆知識として長浜城下には当時「楽市楽座」が置かれ、城下町として栄えました。現在その城下町には黒壁スクウェア等が、歴史ある建物と風情ある街並みを残し観光客を楽しませています。町並みの画像は、その町並みです。見どころは歴史博物資料館、豊公園、慶雲館、黒壁スクエア。アクセスは北陸自動車道「長浜IC」より約15分。JRびわこ線「長浜駅」より徒歩約7分。
三島スカイウォーク (静岡県三島市)
2016/03/17昨年よりTV等で紹介されている日本一長い大吊橋「三島スカイウォーク」を見たさに朝早く起床しました。現在5時ですが予定では、高速で沼津ICまで3時間、プラス一般道15分なので比較的近い行程です。お馴染の長久手ICをスタートし、途中休憩等を取りながら由比PAにて富士山を撮影です。さすが世界遺産で天気も良く、久しぶりに感動しました。沼津IC到着は9時過ぎと少々タイムロスし、それにも況して一般道でも30分以上掛かってしまいました。結局到着した時間は9時45分と長久手より4時間以上掛かりました。実はこの三島市には2014年9月20日に、百名城の一つとして登録されている山中城跡を訪問したことがありますが、まさかこんなに身近なところに建設されているとは思いませんでした。さてこの日本一長い大吊橋の名称「三島スカイウォーク」は、2015/12箱根西麓に全長400m大吊橋として誕生しました。今や九州の九重夢吊り橋の390mを抑えて日本一に輝き、吊り橋からは世界遺産の富士山や、日本一深い駿河湾を望む絶景スポットとして脚光を浴びようとしています。将来は日本の観光名所の一つとして、四季折々の変貌と記憶を刻む事でしょう。アクセスは東名高速道路「沼津IC」より約15分。JR「三島駅」よりバスで約25分。入場料1000円 見どころは大吊橋からの大展望、スカイガーデン(花が降るショップ)
韮山反射炉 (静岡県伊豆の国市)
2016/03/17三島スカイウォークから136号線若しくは伊豆縦貫自動車で25分の場所に、明治の日本産業革命遺産こと韮山反射炉がありました。約1時間掛かりましたが説明書では25分で行けるそうです。あまり馴染のない名前で私自身知りませんでした。反射炉とは、17〜18世紀ヨーロッパで発達した、金属を溶かして大砲などを鋳造する溶解炉で、炉内の天井で炎と熱を反射するしくみから「反射炉」と呼ばれたそうです。歴史は嘉永6年(1853)ペリー艦隊の来航を受けて、幕府が海防体制の抜本的な強化に乗り出しました。伊豆韮山代官だった江川英龍(えがわひでたつ)を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されました。当初は下田に着工されたようですが、下田に入港したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入した為、急遽韮山に変更されたようです。安政4年(1857)に跡を継いだ三男だった息子の英敏(ひでとし)が築造を進め、連双2基4炉からなる反射炉が完成しました。周辺には大砲生産の行程を担っている建物や河川があり、そうしたものが製砲工場となっています。人名辞典として、江川英龍は江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官を務め、通称の太郎左衛門(たろうざえもん)と言い、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られています。洋学はとりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させました。地方の一代官でありましたが、海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし勘定奉行任命を目前に病死しました。因みに勝海舟が絶賛したとも福沢諭吉が憧れたとも云われています。豆知識は、平成27年7月「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産のひとつとして、世界文化遺産に登録されました。アクセスは東名「沼津IC」若しくは新東名「長泉沼津IC」より伊豆縦貫道「江間IC」経由で約30分。伊豆箱根鉄道伊豆長岡駅より徒歩約20分。観覧料100円 見どころは反射炉、近隣に蛭ヶ小島歴史民俗資料館、江川邸、韮山城跡
苗木城跡 (岐阜県中津川市)
2016/03/31漸く桜のシーズン真っ盛りとなって来ました。私の住んでいる長久手も8分咲きとなり、如何にも新しい年度の幕開けが始まった感じがしますが少し大袈裟でしょうか。ところで本日の訪問先は山間部にある為、桜には未だ少し早いかもしれないと思われます、岐阜県は中津川市にある苗木城跡(なえき城跡)です。行き方は、自宅から10分の猿投(さなえ)グリーンロード「八草(やくさ)IC」より東海環状道路の「豊田藤岡IC」に入り、「土岐JCT」経由で中央道上り車線より「中津川IC」を目指します。所要時間は約55分(一般道10分含む)です。現地では苗木遠山資料館(入館料320円)の入館料を払えば、駐車場が無料で利用できます。所見は、山城で巨大な岩石を多く利用しているため、かなり複雑な造りで苦労したのではないかなと思われます。現在は城跡の頂上に天守展望台が設けられています。CGで復元されたイメージは、正に宮崎駿氏の作品を彷彿させるジブリの世界に見えます。歴史は、鎌倉時代より地頭(じとう(鎌倉幕府や室町幕府時代に公領を管理支配する為に設置した職)としてこの地の苗木郷(中津川市苗木、坂下、福岡地区)を治めていた遠山氏は、戦国時代になると高森山に城を築き、織田氏や武田氏と縁戚関係を結び勢力を広げました。本能寺の変の後、豊臣氏に従わなかった遠山氏は一時城を追われ、徳川氏に身を寄せましたが「関ヶ原の戦い」に先立ち、家康より東濃((とうのう)現美濃の東部)奪還を命じられ、苗木城を取り戻しました。又この功績により苗木領1万石余を賜りました。これより遠山氏は苗木領主として、初代友政から12代友禄にわたり一度も国替えが無く、江戸時代を通して明治初期まで此の地を治めました。見どころは苗木城跡、苗木遠山資料館。アクセスは中央道「中津川IC」より257号線城山大橋経由で約10分。JR中央線「中津川駅」より北恵那交通バス「苗木」下車、徒歩約20分