七里御浜 三重県熊野市
Copyright(c)2015 Riovallis All Rights Reserved.
鬼ヶ城 (三重県熊野市)
2016/04/05今回の目的地は三重県から和歌山県に繋がる紀伊半島の景勝地(熊野古道)を訪問することにしました。長久手ICより上社JCTを経由し、名古屋第2環状自動車道を通り、名古屋西JCTより東名阪自動車道を伊勢方面(伊勢自動車)に乗継ぎ、勢和多気(せいわたき)JCTを経由し紀勢自動車道に入り、無料区間を含め終点の尾鷲北まで走行し、そこから一般道の新国道R42(熊野尾鷲道)を通り、熊野市の玄関口になる熊野大泊(くまのおおどまり)まで、約5時間で到着しました。最初に訪問したのは三重県立熊野古道センターです。この場所は鬼ヶ城(世界遺産の一部)への入口であり、勿論観光名所ということになります。隆起した大岩盤が海に洗われてできた荒々しい所で、国の天然記念物と名勝に指定されています。伝説としての名前の由来ですが、坂上田村麻呂が桓武天皇(かんむ天皇)の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊の多娥丸(たがまる)を征伐したと言う事だそうですが、同時にこの地が鬼の住む地として荒々しい景観だった所からも起因しているのではないでしょうか。 歴史は室町時代(1523年頃)に有馬忠親(ありまただちか)が隠居城として山頂に築城したのが鬼ヶ城本城跡です。有馬氏はのちに堀内氏によって滅ぼされ、その後堀内氏は豊臣秀吉に仕え「関ヶ原の戦い」まで当地を治めました。見どころは隆起岩石鬼ヶ城、展望台(鬼ヶ城本城跡)。アクセスはJR「熊野駅」より徒歩35分。「熊野大泊IC」(新国道42号線)より約5分
<





熊野本宮大社 (和歌山県田辺市)
2016/04/06昨日は新宮城跡を後にし、そのまま新宮市内に宿をとりましたが、本日はそのホテルから早朝に出発です。R168号線を熊野川に沿って北上して行くかたちで本宮町を目指します。途中の熊野川の上流には巨岩の絶景を船行する事で有名な瀞峡がありますが、今回は残念ながら「瀞峡下り」はパスし目的地の熊野本宮大社に急ぎます。「道の駅」で軽い朝食を取り、午前7時過ぎには本宮大社のある和歌山県田辺市本宮町に到着しました。当初もう少し時間の掛かる旅路になると思っていましたが、意外と道路等が整備されており、順調に進むことができました。そこで少しペースを落とし、本来の旅の醍醐味を味わう事にします。熊野本宮大社は昨日訪問しました熊野速玉大社と同様熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の一つで、全国3000社以上を数える熊野神社の総本宮です。平安時代の上皇や貴族が憧れ訪れた熊野三山の中心的な聖地です。現在では周辺の古道を歩き温泉郷での宿泊が楽しめます。境内には江戸時代建造の上四社の御本殿があり国の重要文化財に指定されています。折角なので私も貪欲に祈願させて頂きました。勿論祈願の内容はトップシークレットです。歴史(神話)としては、主祭神は家津美御子大神(スサノオノミコト)で、歴史を遡ると古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。熊野川支流の三本の川の中州にあたる聖地大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたのは、飛鳥時代(615)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。先述の平安時代そして室町時代には身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから大勢の人が絶え間なく訪れ、その参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。見どころは本宮大社 大斎原の鳥居。アクセスは紀伊田辺駅からバスで約1時間55分。新宮駅からバスで約1時間20分。阪和自動車道「南紀田辺IC」より311号線、241号線経由59km。紀勢自動車道「尾鷲北IC」42号線、168号線経由85km。

新宮城跡 (和歌山県新宮市)
2016/04/05まだ、12時を過ぎたばかりと少しビックリ気味です。長久手市より朝が早かったこともありますが、高速道路や三重県の峠越えが自動車道に整備されたこと等、交通条件が頗る良くなったおかげです。十年一昔であれば南紀方面は秘境と云われ、あまり足を踏み入れなかった地ですが、本当に便利になりました。そうこう感慨に耽っている間に、いつしか三重県から和歌山県に突入です。これより目指すは新宮城跡です。JR「新宮駅」からものの8分程度と近いところですが、私はR42号線をひたすら南下しての到着です。さて新宮城跡ですが、堅固な石垣しか残っていませんが、桜花とのコントラストが良い感じでこの時期ならではの風情ですかね。 歴史は、戦国時代末期に豊臣秀吉の甥で浅野幸長一族の浅野左近大夫によって、本格的に城の建設が始められました。その後江戸時代に新宮領主となった水野重仲(みずのしげなか)により天守閣を中心とした城が完成しました。明治維新の後に遺構はほとんど壊され、今は石垣が残るのみです。城の別名から丹鶴城公園(たんかくじょうこうえん)として整備され、お城の高台からは新宮市内はもちろん、熊野川や熊野灘も見渡せます。 豆知識として、この城の別名「丹鶴城」の由来はこの地に丹鶴姫(源為義の娘、源頼朝、義経、義仲の叔母)が開いた東仙寺や住居があった事や、またの別名「沖見城」(おきみじょう)と呼ばれたのは、この城から熊野灘(この地から望む外海の名称)を望めるからと云われています。見どころは、城跡、桜、城跡よりの熊野川や熊野灘の遠望。アクセスはJR「新宮駅」より徒歩約8分
熊野速玉大社 (和歌山県新宮市)
2016/04/05新宮城跡から程近い所に鎮座している熊野速玉大社を参詣して来ました。もともと今回の目的は世界遺産である「熊野古道」に関連した史跡や社寺仏閣の訪問なので、ここは外せません。概要として、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、熊野三山の一社として全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。夫須美(ふすみ)、速玉(はやたま)の二神を祀り、社宝1,000余点を収める神宝館や天然記念物ナギの巨木があります。特に、孝謙天皇の御世に日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。 豆知識として、熊野三山とは現在の和歌山県南部に鎮座します「熊野本宮大社」(本宮に位置)、「熊野速玉大社」(新宮に位置)、「熊野那智大社」(那智に位置)を言います。熊野三山の実際の統括者「熊野別当」とは、その役職は社僧が務め代々世襲制となっています。またその熊野別当は宗教組織の長であるだけでなく、熊野水軍などの軍事組織の長でもありました。熊野別当でもっとも有名なのが、平安時代末期の第21代熊野別当の湛増(たんぞう)です。湛増は200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣し、平氏を壇の浦に沈め源氏を勝利に導きました。義経の従者であった武蔵坊弁慶は湛増の子とされ、熊野周辺には数カ所、田辺や鮒田周辺などにも弁慶が生まれたと伝わる場所があります。見どころは、熊野速玉大社、ナギの大樹、神倉神社(今回は訪問出来ませんでしたが、熊野速玉大社の摂社であり南方、約1Kmの山の斜面に巨岩とともにあります)アクセスはJR「新宮駅」より徒歩約20分。紀勢自動車道R42の「尾鷲北IC」より約50km。近畿自動車道紀勢線R42の「すさみ南IC」から70km。
獅子岩 花の窟神社 七里御浜 (三重県熊野市)
2016/04/05「獅子岩」は鬼ヶ城から約10分(徒歩35分)南方に位置します。「七里御浜」(しちりみはま)に面した岩場にそびえる巨岩が獅子の形に似ていることから名がつき、国の天然記念物として名勝にも指定されています。また近隣に流れる井戸川の上流に、今回は訪問出来ませんでしたが、大馬神社(おおまじんしゃ)と言う神社がありますが、この「獅子岩」を狛犬に準えて境内に狛犬は存在しないのだそうです。そしてこの「獅子岩」のある「七里御浜」は鬼ヶ城の南から三重県と和歌山県の境にある熊野川(新宮川)の川口まで、七里(約21km)に渡って続く砂浜海岸になります。熊野参詣の旅人が歩いた熊野古道伊勢路として世界遺産に登録されています。本日は晴天にも恵まれ非常に良い景観をみせて頂きました。感無量です敢えて云うならば人生はタイミング、特に一期一会の旅ですから幸運に感謝します。「獅子岩」続いて訪ねた先は「花の窟神社」(はなのいわや)です。「獅子岩」から徒歩でも僅か10分程度ですが、私は車での移動です。「花の窟神社」は、巨岩を御神体として祀る神社で、国産みの女神であるイザナミノミコトを葬った御陵として、日本書紀に記されています。毎年2月2日と10月2日に行われる例大祭「お綱かけ神事」でも知られています。白く輝く巨岩を祀った古代からの聖地として崇められています。御利益は参詣者の心がけと気持ちですので、何がとは云えませんので御了承下さい。注釈> 今回の眺望画像は全てR42号線沿いからです。松本峠(鬼ヶ城のある半島)から望む景観とは異なります。見どころは獅子岩、七里御浜、花の窟神社。アクセスはJR「熊野」駅より徒歩約20〜30分。
赤城城跡と丸山千枚田 (三重県熊野市)
2016/04/05「花の窟神社」から車で走ること約1時間、紀和町赤木城跡に来ました。豊臣秀吉時代の築城名手の藤堂高虎が「天正の北山一揆」を制圧するために築いた城です。現在は標高230mの丘陵地に築城当時の遺構を示す石垣が残り、近年は天空の城として脚光を浴びています。日本の「天空の城」と称されているのは、竹田城跡を始めとする遺跡と比べると規模的には大きくはありません。それが幸いしてか登城の難易度が低く、観光客には嬉しいかもしれません。赤木城の沿革ですが、「紀伊続風土記」「倉谷家文章」などから 天正16年(1588)大和大納言(豊臣秀長)の北山攻め後、時の北山代官(藤堂佐渡守のちに和泉守高虎)が築きその地を統治しましたが、その際地侍を中心とした一揆が起こり加担した者をを赤木城の西方の田平子峠(たびらこ峠)で斬首し獄門にしました。藤堂高虎は文禄4年(1595)四国伊予三郡を与えられるまでの11年間、北山付近に在居し城郭の整備をしたものと考えられています。「天空」と云えばもう一つ違った風景が此の地に存在していました。それは、丸山千枚田です。江戸時代に築かれた日本最大規模の棚田ですが、かつては2240枚もの田があったと言いますが、今は残念ですが過疎化などで減少したようです。それでも現代では1340枚の水田が復活しており、四季折々の美しさを見せています。私も初めて見ましたが、「田圃」にこれ程感動するとは思いませんでした。また、季節や時間によっては、きっと変わった一面を見せてくれると思います。見どころは、赤木城跡(桜並木)、丸山千枚田。アクセスはJR「熊野市駅」より車でR42、R311、R40若しくはR760を経由し約40分で丸山千枚田。そこより更に10分で赤木城跡