
豊川稲荷と吉田城跡 (愛知県豊川市と豊橋市)
2016/06/23晴天に恵まれた日は、当然出かけたくなりますよね。と云っても現在午前10時と少々時間が経っていますが、近場あれば日帰りでも愉しめるかもしれません。そこで今回選んだ場所は、東海道の中心部で殆どの観光客が一度は、訪れる豊川市にある「豊川稲荷」に行くことにしました。高速で長久手ICより豊川ICを利用して約40分で到着です。豊川稲荷(豊川閣妙厳寺 とよかわかくみょうごんじ)は日本三代稲荷として名を列ねていますが、実は岡山県の最上稲荷(最上稲荷山妙教寺)と同様寺院でもあり二刀使い(社寺)なので、諸説では伏見稲荷・笠間稲荷・祐徳稲荷が三代とも云われています。三大稲荷の特定説ははっきりしていませんが、ともあれ参拝して行きましょう。境内の本殿は寺院そのものです。しかし、同じ境内に鎮守の稲荷が祀られ、参道には鳥居が立っています。また、訪れる人は商売繁盛の神として崇めているそうです。やはり二刀流ですか・・・。最後に驚愕すべきものを見つけました。稲荷神社には狐が付き物ですが、それも狛狐の大群です。何百以上かも・・・数えていませんが。さて豊川稲荷に続いての訪問先は、豊橋市役所に隣接する公園内に佇む吉田城跡です。豊川稲荷から車で20分程と身近な位置にあり、観光コースとしては時間の短縮と、更に公園内は無料駐車場が設置してあるのでのんびりと城跡や資料館の見学が可能で、有り難きことです。歴史は永正2年(1505)に今川氏の将である牧野古白により、この地に今橋城が築かれたことに始まります。地形種類は平城で大永2年(1522)に、今橋城は吉田城へと改称されました。吉田城は東三河の要衝として戦国時代の争乱の中で、今川、武田、松平(徳川)ら戦国武将により激しい攻防戦が繰り広げられました。徳川家康は永禄8年(1565)吉田城を攻略し、配下の酒井忠次を置きます。天正18年(1590)には徳川家康の関東移封に伴い池田輝政が15万2千石で入城し、城の拡張と城下町の整備を行い現在見られる吉田城を造りました。豆辞典として、吉田城は「後堅固の城」と称されています。これは元来吉田城の立地条件として豊川と朝倉川を背にして戦う背水の陣となり、さらに背後からも渡河され本丸を直接攻撃されやすく、そのため本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとして、その弱点を補っているのです。見どころは、豊川稲荷、狐群、吉田城跡、神武天皇像(公園内)。アクセスは東名高速道路「豊川IC」下車約10分で「豊川稲荷」。「豊川稲荷」より豊橋方面R1号線経由で約20分「吉田城跡」入館料無料
白川郷の合掌造り家 岐阜県大野郡白川村
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白川郷合掌造り家 (岐阜県大野郡白川村)
2016/05/18高山市にある高山陣屋跡を中心に朝市や高山城跡などを見学し終わった後、市内から車で約1時間30分程走り到着したのが、世界文化遺産に登録され合掌造りで有名な白川郷です。山間の中部縦貫自動車道と東海北陸自動車道を利用しての行程ですが、意外と掛かりました。駐車場は平日にも拘らず観光バスが多く、日本人観光客と思いきや殆どが中国や台湾と国際色豊かで、現在のインバウンド・ブームを象徴しています。庄川に架かる橋を渡れば集落ですが、橋から見る光景は壮観と云うか、山々に囲まれた大自然に目を奪われます。少し大袈裟かもしれませんが天気にも恵まれ非常に気持ちが良いです。勿論、集落のほうが圧巻ですが。概要の白川郷(しらかわごう)は、岐阜県内の庄川流域の呼称であり、大野郡白川村と高山市荘川町(旧荘川村)および高山市清見町(旧清見村)の一部に相当し、白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼びます。然し、今日では白川村のみを指すことが多いようです。白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られていますが、独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定され、1995年には五箇山(相倉地区・菅沼地区)と共に「白川郷五箇山の合掌造り集落」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。今回、見学させて貰った白川村の合掌造り家である「長瀬家」は築260年つづく旧家で五層建ての合掌造り家屋です。約11mの一本柱が、屋根の勾配の上から下までを貫き、大きな屋根を作っています。他にも沢山の見学出来る建物がありましたが、残念ながら一件だけに留めました。見どころは長瀬家、四季の合掌集落。アクセスは東海北陸自動車道「白川郷IC」より約15分






鶴岡城跡 (山形県鶴岡市)
2016/10/19二本松市在住の友人と、早朝と云ってもシルバー世代の我々にとっては遅い7時起床での出立になります。二本松から山形県鶴岡市を目指します、一般道から高速道路と駆使しながらも尚且つ小腹を満たし、紅葉あふれる月山新道をゆるりと景観(出羽三山)を楽しみながらの道中は時代錯誤に浸る気分です。漸く目的地鶴ヶ岡城に到着しました。所見から云いますと堀がある程度の市民公園で唯一目に留まるのは荘内神社です。由来は明治10年、荘内総鎮守として鶴ヶ岡城本丸址に創建されました。以来、庄内一円の人々から開運等のご利益があると崇敬頂いているそうです。また、園内には鶴岡出身の時代小説家「藤沢周平記念館」が在り、訪れる観光客を江戸時代の空間へと誘います。勿論、個人的な思考ですが。歴史は、鶴ヶ岡城の前身となる「大宝寺城」が最初に築かれました。鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏と伝えられています。慶長8年(1603)山形城(現山形市)を本城とする最上義光によって配下の城の整備が整うと、酒田浜(酒田市)に大亀が上がったことを祝し、東禅寺城(酒田城の旧名)を亀ヶ崎城と改称しました。この時、亀ヶ崎城に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されました。元和8年(1622)酒井家三代忠勝公が幕命により信州松代から出羽之国荘内に入部し歴代藩主が250年に亘り善政を施しました。見どころは、荘内神社、藤沢記念館、大宝館。アクセスはJR羽越本線 鶴岡駅より徒歩約20分。山形自動車道「鶴岡IC」から車で約10分
砂越城跡 (山形県酒田市)
2016/10/19ネットの情報から櫓らしき建物を発見しましたので、鶴岡市から酒田市へ移動することにしました。私のマップミスもあって約30分のロスを加えると2時間位掛かり、やっと酒田港に到着しました。他にも観光できる史跡(城跡)があればと思い市役所の観光課に紹介して貰いましたが、私の個人的な感覚から見劣りすると判断し、当初の目的地である砂越城(さごし城)にいくことにしました。15時を少し過ぎたころ砂越公園に到着。二本松市在住の友人と園内を散策する中で、物見櫓のようなもの発見しましたが残念ながら老朽化の為、立ち入り禁止となっており上ることができませんでした。 所見は子供の広場的公園ですが、ところどころに史跡が見え隠れしています。少し寂しい気はしますが、当然時代と共に埋もれてしまうのは世の常で仕方がありません。これも温故知新なのか行かなければ分かりません。歴史として、築城年代は定かではありません。一説によりますと播磨国の赤松氏の三男石黒某が升田に住み砂越の館を構えて移りましたが、鎌倉から出羽郡司として砂越氏が下向した為、砂越を明け渡し松山へ移り、砂越氏が城主となったと云われています。永正10年(1513) 砂越氏雄は大宝城主(現鶴岡城)武藤氏と戦って敗れ武藤氏維が砂越城主となりました。天正16年(1588) 越後国の本庄繁長が庄内へ侵攻し、砂越武藤氏は青沢へ退き後に三春城主秋田安房守に仕えたと言われています。見どころは、物見櫓、土塁、濠、桔橋(はね橋)アクセス、日本海東北自動車道「酒田中央IC」から車で約10分。羽越本線「砂越駅」から諏訪神社、長應寺へ徒歩約15分
富岡製糸工場 (群馬県富岡市)
2016/10/20福島県二本松市在住の友人宅に3泊4日間お世話になり、帰路に着くことになりました。帰り道は二本松市より一般道の国道4号線をひたすらに南下し、途中サプライズな発見を期待しましたが、残念ながら何も発見する事はありませんでした。栃木県宇都宮市圏内に入り、渋滞を避ける為に一つ手前の「矢板IC」から東北自動車道に合流する事にします。そして岩舟JCTより「北関東自動車道」、「関越自動車道」(高崎JCT)から「上信越自動車道」(藤岡JCT)を経て、そのまま帰宅するつもりでした。しかし、そう云えば別れ際に友人から「世界遺産の日光若しくは富岡製糸工場に立ち寄ってみれば・・・」と、サイトマップを見ながら云っていたのを思い出し、丁度「富岡IC」も直ぐそこなので立ち寄ることにしました。ICを降りてから、は約20分で上信電鉄「上州富岡駅」の近くにある無料駐車場に車を停めることが出来ました。そこから徒歩で約15分ですかね。煉瓦造りの工場らしき建物が直ぐに見えてきます。平日だというのにかなりの人だかりです。流石ですね、世界遺産ともなれば。そう言えば、今思うに駅も新装改築されていた様な気がします。工場内には資料館や実際に工女達の仕事場や、そして寄宿舎等があります。一度ご見聞しましょう。歴史は、群馬県富岡市に設立された日本初の本格的な機械製糸の工場です。明治5年(1872)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存しています。日本の近代化だけでなく、絹産業技術の革新や交流などにも大きく貢献した工場です。敷地を含む全体が国の史跡に、また初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されています。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録されました。見どころは、繰糸場、置繭所、蒸気窯所、女工館。アクセスは、上信電鉄上信線「上州富岡駅」より徒歩約15分。上信越自動車道「富岡IC」から車で約20分

三春城跡 (福島県田村郡)
2016/10/18岩角城跡(岩角山岩角寺)より車で約20分、田村郡三春町に到着しました。 通常一人で旅路を巡っていますが、此処は二本松市在住の友人にとってホームグランドみたいな処です。運転は彼任せです。さてお城は、三春町役場の北東に聳える標高407.8mの城山に築かれおり、現在は城山公園として整備されています。山頂近くには別名「舞鶴城跡」の石碑と僅かに石垣等の遺構が残っています。ネットの紹介では三春小学校に「藩校明徳館」の表門が現存しているそうです。歴史は、築城年代は定かではありませんが永正年間(1504〜1521)に田村義顕によって築かれたと云われています。平姓田村氏は義顕の時、守山城(三春町より西南方の約7.5Km現守山小学校付近)より三春城へ居城を移したとされていますが、寛永4年(1627)会津藩主加藤嘉明の三男明利が三万石で三春城主となり、翌年二本松城主松下重綱が急逝すると明利は二本松城へ移り、替わって二本松城から松下長綱が入りました。正保元年(1644)松下氏は改易となり、正保2年(1645)常陸国宍戸から秋田俊李が五万五千石で入封し明治に至ります。見どころは藩校門、守城稲荷神社。また今回は季節が秋と言う事で訪れませんでしたが、車で15程の所に嘗て春期に友人と訪れた事のある、日本五大桜とも三大巨桜とも言われる有名な「三春滝桜」があります。アクセスは磐越自動車道「船引三春IC」から約15分。 JR磐越東線 三春駅から徒歩約30分。

「椰子の実」
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月
旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん
田原城跡と恋路ヶ浜 (愛知県田原市)
2016/06/23「豊川稲荷」や「吉田城跡」のある豊川市内から約1時間で、お目当ての「田原城跡」のある田原市に到着しました。平日と言う事もあり、車は少なく観光客もあまりいません。まあ、当たり前のことですが混雑やシーズンを憚るのが私の狙いでもあります。余談ですが最近ニュースでも報道されている通り、海外の観光客が本当に増えました。つまり、日本の歴史や文化が一種のトレンディーだと思う人達でしょう。そのためか平日も混む処が多々ありますが、幸い今日は混んでいません。「田原城跡」は現在復元の二の丸櫓と桜門が佇んでいて、櫓内は博物館として利用されています。本丸跡には神社が建っていて当時の時代を偲ぶものは殆どありません。歴史として「田原城」は、文明12年(1480)頃に戸田宗光によって築城されました。周りを海に囲まれた堅固な城で湾の形が巴形になっていたところから、「巴江城」とも呼ばれていました。寛文4年に三宅康勝が拝領し、以来三宅家の居城として明治維新を迎えました。博物館はお薦めです。崋山(渡辺崋山)自刃の刀、遺書、その他関係の書画、遺品等の重要文化財を通して崋山の生涯から没後までを、わかりやすく紹介しています。因みに崋山は現在に於いて日本画壇の巨匠として有名ですが、当時は田原藩の家老であり画家でもありました。蛮社の獄(言論弾圧事件)で謹慎中に貧しい渡辺家に、自身の書画を生活の足しにしていた事を幕府に問題視され、藩に迷惑が及ぶのを恐れた崋山は、「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して切腹しました。享年49歳の年です。さて次は、渥美半島の先端「恋路ヶ浜」です。「田原城跡」を後にR259線を凡そ30分で伊良湖岬のフェリー乗り場に到着しました。船には乗りませんが、海岸の景観があまりにも素晴らしく、渚に打ち寄せる波を見ながら暫くその潮騒に耳を傾けることにします。恋路ヶ浜は岬の裏側でR259線からR42線の折り返し地点にあります。印象は今年の4月に訪問した熊野市の「七里御浜」を小さくした感じです。唱歌「椰子の実」は此の地が舞台になった美しい砂浜です。豆知識として、この詩「椰子の実」は明治31年(1898)の夏、1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した柳田國男が浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がその話を元に創作したものです。作曲家の大中寅二により昭和11年(1936)に完成しました。見どころは、田原博物館、伊良湖岬、恋路ヶ浜。アクセスは、豊橋鉄道「三河田原駅」から北へ徒歩約15分。「豊川IC」よりR151〜R1〜R259経由で約1時間にて「田原城跡」入館料210円。「豊川IC」よりR151〜R1〜R259経由で約2時間にて「恋路ヶ浜」


岩角山 (福島県二本松市)
2016/10/18今回は、久しぶりに紅葉真盛りな福島県は二本松市在住の友人を訪ね、ネットから得た情報をもとにお城らしきものを探索することにしました。情報をもとに本宮市の岩角山にある岩角城跡を訪ねましたが、城郭遺構らしきものが全然見当たらず、あるのは通称「岩角寺」です。残念と思いきや、岩角寺頂上辺りに二本松城主の丹羽光重公の遥拝石(ようはい石)を発見しました。然しながらこれは、直接城としての関係では無く江戸時代に丹羽光重公が毘沙門天への信仰から、豪伝和尚(ごうでん和尚)と共に岩角山の復興に尽くしたという証の石と思われます。詳細は定かではありませんが、天正年間(1573〜1592)に石橋玄蕃、国分玄蕃の居城であったと伝えられています。更に天正13年(1585)伊達政宗によって落城し、同年の人取橋の合戦では政宗はこの岩角城を経て本宮城へ向かっています。と云われても、そこは100%お寺なのです。しかし、境内には城や寺よりも目を見張る神秘的な、今にも滑り落ちてきそうな巨石や巨岩があり、それにその岩面に描かれた仏画や仏像が所狭しと数多く鎮座しています。いやいや今回の旅で意外なところで面白いものを発見する事が出来ました。これも「旅情あふれる憩いの地」を求める中での醍醐味でしょう。ただし、参道は傾斜が厳しく、結構よい運動になりました。豆辞典は「人取橋の合戦」は天正13年11月17日(1586年1月6日)に佐竹氏および蘆名氏(あしなし)らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の戦いです。ここでご覧になられている方にお断り申し上げます。添付されている画像には殆ど城に関するものは含まれていません。岩角城跡ではありますが、現在は由緒あるお寺「和田山常光院岩角寺」(わでんさんじょうこういんがんかくじ)の境内になっています。後で分かった事ですが、実際の岩角城跡はこのお寺のある山の背面の「岩角山」山頂付近にあったようです。しかしいずれにしても遺構等は殆ど現存しないのが現状のようです。見どころは至る所に鎮座する神秘的な巨岩のある迷路のような参道と毘沙門堂に代表される繊細な木造建築の彫り物。アクセスは国道4号線本宮から白沢方面に約15分。JR東北本線下り(各駅停車)「本宮駅」下車よりタクシーで約15分。