長野県松本市 松本城
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小山城 (静岡県榛原郡)
2014/09/20山中城跡(静岡県三島市)よりの帰路ですが、以前にネットで模索して於いた静岡市より南西の御前崎方面の榛原郡(はいばら郡)吉田町の模擬城を訪問することにしました。指定文化財ではありませんが、自己の感性から矢張り建物にそそられるものがあるのです。兎に角行って見ることにしましょう。旧東名高速で沼津ICから吉田ICを経て約1.9kmのところに三層五階の模擬城がありました。実際には天守があった訳ではなく犬山城をモデルに建てられた展望台兼資料館の模擬城です。周りに高層建築等がなく能満寺山公園(のうまんじやま公園)の小高い場所に建っているので景観は、プチサプライズという感じですかね、是非一度訪問されては如何でしょうか。概要は今川氏によって遠江(とおとうみ)南東部の大井川西方に築かれた山崎の砦が、このお城の始まりとされています。今川氏を倒した武田氏により、亀2年(1571)に築城されました。縄張りは馬場信春、城将は大熊朝秀(長秀)で、諏訪原城と共に大井川西方の防衛ラインを形成し、高天神城(たかてんじん城)攻略の為の拠点となっていました。また、諏訪原城落城後は高天神城への補給路の要ともなっていました。天正10年(1582)には甲州征伐のため駿河と甲斐に向け出陣した徳川家康の攻撃を受けて落城しました。小山城は遠江国(とおとうみのくに)と云われ榛原郡吉田町にあったお城で、上記の諏訪原城(すわはら城)と高天神城(たかてんじん城)とともに武田家と徳川家との争奪の渦中にたたされた城でした。豆知識として、諏訪原城跡は現在の静岡県島田市金谷にあり、徳川時代には牧野城とも云われ、高天神城は静岡県掛川市上土方下土方にあったお城で、別名鶴舞城と言われています。見どころは、小山城資料館、能満寺山公園。アクセスは、東海道本線藤枝駅又は島田駅よりバス静波方面行き吉田高校前下より車徒歩約5分。
高島城跡 (長野県諏訪市)
2014/07/01日の出から日の入りが近づく中、長野県の最終訪問先の高島城に向っています。松本城から高速道路を使用し、中央道の関東方面と名古屋方面の分岐点岡谷JCTを東京方面に更に進むこと約10分で諏訪ICに到着しました。思ったより時間は掛からず松本から諏訪市の高島城には1時間くらいで到着です。諏訪湖を望む僅かな距離は景観と守りの利を生かした可能性があると思われます。勿論、個人的な意見ですが時代背景によって捉え方も違いがあるかもしれません。しかし、所見とは別として復元城としては、古天守の松本城同様に四季に映える素晴らしい情景を持っています。歴史は天正18年(1590)豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉(ひねのおりべのかみたかよし)が諏訪に転封され領主なり慶長3年(1598)までの8年をかけて築城しました。諏訪湖の水が城の際まで迫り、湖上に浮いたように見えたので別名「諏訪の浮城」と呼ばれたそうです。関ヶ原の戦以降は徳川軍に属した諏訪頼水が恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以後270年間10代藩主頼礼まで居城としました。復興城の為、拝観料(入城料)大人300円小人150円。休館日は12/26〜12/31及び11月第2木曜日。開館時間9時〜17時30。見どころ 復興天守、四季の風景、天守からの眺望。アクセスはJR中央本線「上諏訪駅」諏訪湖口から徒歩約10分。中央自動車道諏訪ICから約15分
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山中城跡 (静岡県三島市)
2014/9/20の朝、目が覚めて時計を見ると6時を指していました。出発するには決して早い時間でもないのですが、今日の走行距離を考えると丁度良い時間かもしれません。今回の目的地は本州では百名城登録地の最後になる静岡県三島市にある山中城を目指すことにしました。天候は曇り7時に出発すれば遅くとも10時には着けるでしょう。高速道路では2回の休憩を取り、40分遅れの10時40分到着です。まあ、慌てる旅でもないので安全が何よりの御褒美です。場所は沼津インターから約30分旧箱根街道を峠近くまで登りますが、峠道はGSがないので燃料の確認は怠らないようにします。山中城跡は箱根の地形と旧街道を挟んで曲輪が整備されています。西櫓、西木戸の物見台からは大自然に囲まれた美しい山々の中に富士山や天城連山の眺望を味わうことができます。癒しの空間としては見事なフレーズではありますが、残念ながら曇り空に時折の雨とは運がありません。沿革は永禄年間(1558〜1570年)に北条氏康により築城されました。このお城は北条氏の本拠地である小田原より西方の防衛を担う最重要拠点で、東海道を取り込む形で造られています。北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城を改修し防備を固める事になりますが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎えました。 天正18年(1590)小田原征伐で豊臣秀次が率いる7万(4万?)の軍勢が山中城を攻撃し、守将である北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら4千の兵は奮戦し、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田、間宮などの武将や城兵の多くが討死しました。お城は戦後になって廃止されました。現在は「古き」を偲んで、この公園として訪れる人々に歴史のロマンを物語っています。見どころは防御に石垣のない土造り(土塁や複列型障子堀、短列畝堀等の遺構(画像参照))の城。アクセスはJR東海本線「三島」駅南口より沼津登山東海バスで「山中城跡」まで約30分
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八王子城跡 (東京都八王子市)
2014/05/14早朝より2ケ月ぶりに関東へ足を運びました。目的地は東京都ですが、どちらかと言えば、山梨県と神奈川県の県境に近いかもしれません。起床は朝4時と少し余裕を持って、出発する事にしました。長久手IC〜八王子西ICまで約330q4時間と少々の行程ですが、途中に休憩をいれても十分時間があります。なんて高を括っていたものの八王子西ICに着いたのは、9時半と大幅に遅れ気味で、結局八王子城跡に到達したのは10時でした。無料駐車場から7分位の所に八王子城跡案内所があり、ボランティアの方が数名みえました。勿論、目的のスタンプは早々にゲットです。さて、案内では観光スポットが2ヶ所に別れていて城跡のある山頂への登城、いまひとつは、心霊スポットとして噂になっている御主殿の滝です。先ずは、滝から行って見ることにしました。道なりに川の側溝がありますが、水はこの日殆ど流れておらず川底の石が露わな状態になっていました。しばらく風景に浸っていると滝壺への登り口が見えてきました。傍には石碑があり主殿の滝と彫られ、やはり滝はじょうろで流した程度の水量です。何の変哲もないところですが、曰くのある所なので霊感のあるなしに拘わらず何かが見えるかもしれません。もう一か所は山道を凡そ30分位登った場所に城の本丸跡地等がありますが、城跡としては少し満足感が得られませんでした。沿革は北条氏康の三男の氏照が元亀2年(1571)頃より築城し、天正15年(1587)頃に本拠としていました。 氏照は当初大石氏の滝山城に拠っていましたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際、滝山城に防衛の限界を感じ織田信長が築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築とし本拠を滝山城からこの八王子城に移しました。滝山城は広大かつ多くの角馬出(防御の為に造られた独特の形状をした土塁)や内枡形(城内の出入り口)を備えた近世的な平山城でしたが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われています。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかけられる仕組みになっていました。ところが八王子城は豊臣秀吉の軍勢で上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの一万五千の軍に攻められ、当時の城主北条氏照と家臣の殆どが「小田原の合戦」に出ていた為、城内には僅かな家臣と婦女子しかいませんでした。領内から農民や職人、その家族らを呼び集め城内に動因しますが、一万五千の軍勢に対抗する術は無く僅か一日で八王子城は落城してしまいました。そしてこの八王子城は「小田原の戦い」への見せしめとして、降伏は受け入れられる事無く皆殺しの戦になりました。これによって不幸にも戦に巻き込まれた多くの非戦闘員さえも無残な死に方をしたのです。これが前振りで少し触れました心霊スポットの経緯で、この御主殿の滝に身投げし不憫な死を遂げた婦女子が供養もされず、まともな慰霊碑も建てられていない事など、様々な要因が怨霊を彷徨わさせているのではないでしょうか。見どころは曳き橋、御主殿跡、御主殿の滝、城山の四季。アクセスはJR中央線「高尾」駅から西東京バス「霊園前」より徒歩約15分(土日曜日は「八王子城跡」行きがあります)。圏央道八王子西ICから高尾方面約10分

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松代城跡 (長野県長野市)
2014/07/01梅雨の合間の好天に恵まれ、今回も早朝に起床しての出発です。これは、私なりのポリシーがある訳ですが、何の事でもない時間の余裕と所々で休憩を取るという他愛もないことです。しかしそれが、正しく「旅情あふれる憩いの地」を訪れる為の、心のゆとりでもある訳です。さて、まず本日最初に訪ねるお城は、長野地方の城跡には百名城の登録地が2ヶ所ありますが、その内の1つで海津城跡公園にある松代城が目標です。名古屋から高速で約270qありますが、単純に考えて4時間のドライブと1時間の休憩が必要です。長野ICに着いたのは10時に5分前とほぼ予定通り、そして松代城跡まで7分位で到着です。近くに駐車場も設けられています。景観は長閑な田園地帯で観光地といった雰囲気ではありません。しかし都会にある城跡から考えると、そこがとても癒されます。所見は砦のような建物ですが以前訪問した上田城にもよく似ています。沿革は永禄3年(1560)に武田信玄によって築かれ、高坂昌信(こうさかまさのぶ)こと春日虎綱 (かすがとらつな)を城将としました。当初「海津城」と呼ばれていたこの城は、武田氏北信の要の城であったようです。川中島の合戦には、この城が舞台に繰り広げられました。武田氏滅亡後は織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康の直轄地になり元和8年、酒井忠勝が出羽庄内に移り、替わって奇しくも元武田氏傘下の真田昌幸が血筋の真田信之が10万石を領して入封し、以後明治までこの地を替わることなく続きました。豆知識として英才、佐久間象山もこの信州松代藩の下級武士の子として誕生(1811~1864)しています。幕末の日本開明の先駆けとも云える五月塾を開き、門下生には吉田寅次郎(吉田松陰)、小林虎三郎、勝麟太郎(勝海舟)、坂本竜馬、橋本左内、武田斐三郎、河井継之助らがいました。見どころは本丸太鼓門、関連施設(真田宝物館、真田邸、象山記念館)アクセスはJR長野駅から川中島バス「松代行き」で約30分 松代駅下車。上信越自動車道 長野IC から約5分
松本城 (長野県松本市)
2014/07/01松代城から約50q、高速で行けば1時間も掛からない目と鼻の先です。本来、旅を満喫すべく醍醐味は旧道にありと誰かが云っていました。しかしそれも賛否両論と云うこと矢張り文明の力をフルに活用したほうがいいので、今回は目を瞑って鼻の先の高速道を択びました。松本城には11時を少し過ぎて堀に近い駐車場に着きました。駐車場を出て直近に珍しい食べ物を発見です。なんと云いましょうか幼少の頃に駄菓子屋で見たような、おかき風煎餅?味付けは醤油?それとも味噌がベースかな、手作りでなかなか美味しかったです。お店の名前は信州有喜堂です。本題の松本城は、駐車場から横断歩道を渡ったところに凛々しい姿を惜しげもなく披露しています。五重六階の天守は日本最古で姫路城、彦根城、犬山城と並び国宝城郭の一つとされています。天守櫓は黒漆塗りの下見板張りの為全体が黒く映り、どの角度からみても見応えがあります。また、周辺には草花や夏には残雪を頂きに雄大な北アルプスの山並みなど、四季折々の風情が味わえます。沿革は天正18年(1590)に小田原城の北条氏直を下した豊臣秀吉は天下を統一すると同時に、徳川家康を関東に移封しました。このとき松本城主であった小笠原秀政が家康に従い下総へ移りました。石川数正、康長の父子が代わって松本に入り、城と城下町の整備を進め近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は文禄2年から3年(1593〜4)と考えられています。豆知識として石川数正は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で大名でした。 酒井忠次と共に徳川家康の片腕として活躍しましたが、小牧長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従しました。信濃松本藩の初代藩主とすることが通説となっているのですが、何故徳川家から豊臣家に寝返ったのか、それとも間諜(かんちょう)、密偵(みってい)等の内部工作説があるとも云われていますが定かではありません。しかし、この事が起因してか徳川家康の江戸時代になって、些細な事件(大久保長安事件)により石川家は改易処分となっています。また、明治時代になってその時の怨念が天守を傾かせたと言う噂話がありますが、勿論物理的に地盤の沈下等の理由により傾いたのですが現在は修復されています。また天守は元々戦の為に築城されましたが、後世の平和な江戸時代に増築された月見櫓には権力の象徴としての部分の2面性を合わせ持っています。見どころは五重天守、玄蕃石(巨大石)、渡橋、松本市立博物館、近隣の旧開智学校校舎。アクセスはJR篠ノ井線「松本」駅からバスで8分「松本城」下車より徒歩約3分。長野自動車道松本ICから158号線で15分
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水口城 (滋賀県甲賀市)
2015/03/16に滋賀方面に行ってまいりました。考えてみれば、昨年から約1年ぶりの史跡訪問かもしれません。生活との背中合わせですから時間が取れる時は、惜しみなく足を運びたいです。今回の目的地は、滋賀県の甲賀市水口(みなくち)に赴きました。朝7:30に住居のある長久手市を出発し、長久手ICより東名高速道の名古屋ICを経由し、名古屋高速を経て名阪国道を利用します。また亀山JCTにて新名神に乗継ぎ、甲賀土山(つちやま)で降りて1号線に合流という行程です。やや難易度の高いドライブですが、殆どナビの誘導に従い凡そ2時間弱位で現地に着きました。タイミングも開館時間の10時丁度となり、いい感じで入館できました。小さな模擬城の中にある資料館と、そしてちょっとした庭園が僅かですが歴史を彷彿させくれました。観光客は他に3名程いましたが、やはり歴史の好きな方の様でした。歴史については、水口は室町時代からすでに宿場町として形成されており、天正13年(1585)には羽柴秀吉の命で水口岡山城が築かれ甲賀の中心地としての基礎が築かれました。関ヶ原合戦後は徳川氏の直轄地となり、東海道の宿駅に指定されました。その後3代将軍徳川家光が寛永11年(1634)京都への上洛の際の宿館を、道中の水口に築かせました。これが水口城(水口御茶屋)になります。作事奉行は小堀政一(遠州)が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれていました。水口藩の成立は、賤ヶ嶽(しずがたけ)の七本槍(加藤清正、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、片桐且元、糟屋武則)で聞こえた加藤嘉明の孫の加藤明友が天和2年(1682)に石見国(現在の山陰地方)から入り、水口城(別名碧水城(へきすい城))を居城とした時になります。見どころは「水口城資料館」入館料100円、歴史民俗資料館(水口城南駅近隣)。アクセスはJR草津線「貴生川(きぶかわ」経由、近江鉄道に乗換「水口城南」駅下車より徒歩4分
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