かずら橋 (徳島県三好市)
常にお城を追っているせいか、歴史の舞台や観光名称等を見逃していることが多いようです。今回の旅で始めから気になっていた場所が、平家の落人集落のあるこの「かずら橋」だったのです。徳島県三好市の大歩危(おおぼけ)から東に位置する山奥にある吊り橋です。今は多くの方に知られていて国の重要文化財に指定された日本三奇橋の一つで、国の有名橋100選にも取り上げられています。2013/05/15高知市から高知自動車道で大豊ICを下車して、祖谷渓(いやだに)を目指しR32を北上します。所要時間は1.5時間位です。R32より土讃線「大歩危」駅に向かって吉野川にある橋を渡り、そのまま山道を道なりに登っていきます。途中立ち寄りはしませんでしたが、平家屋敷民俗資料館があり、平家の資料や遺品が展示されています。安徳帝の御典医だった堀川内記の子孫代々の屋敷です。堀川内記は平家滅亡の折に一族とともに入山し、薬草の豊富な祖谷の地で医業と神官を務めた人です。庭には樹齢800年の老木がそびえ、江戸時代の民家をそのまま保存した館内には、鎧や旗、古文書、生活用具などが展示されています。平家屋敷を過ぎると5〜6分位で下りになり、約10分で大駐車場に到着します。かずら橋は、サルナシ(しらくちかずら)などの葛類を使って架けられた原始的な吊り橋ですが、現在は安全の為にかずらは装飾としてワイヤーを包み込む状態で使用されています。実際に渡ってみましたが、眼下が丸見えなので高所恐怖症の方は遠慮した方がよろしいかと思います。豆辞典としてサルナシマタタビ科マタタビ属のつる性植物で別名シラクチカズラ、シラクチヅルと言い、果実はしばしばコクワと呼ばれます。見どころは勿論、橋の度胸試し、周囲の景観。アクセスは土讃線「大歩危」駅から車かバスで約20分








川之江城 (愛媛県四国中央市)
2013/05/15大歩危(おおぼけ)から小歩危(こぼけ)を経て、R319を四国中央市川之江城に向って車を進めます。アナログマップを片手に旧街道と思いますが、走行いやはや、私の車で道幅を占める状態な難所だらけで、これこそ大歩危ならぬ大走危です。この道路は余りお薦めしたくありません。事故になる可能性大です。取り敢えずR32でJR土讃線の「阿波池田」駅手前まで行き、R192経由で向かった方が安全に走行できます。狭い山間の道をなんとか潜り抜け、平成の合併で出来た四国中央市の川之江町に辿り着きました。祖谷渓から所要時間1.5時間位掛かります。目標捜しは基本的に地元の人に聞くのが一番で、確認を兼ねて尋ねてみました。意外と近くまで来ていたのか、難なくお城をみつけることが出来ました。沿革は南北朝時代の南朝方の武将であった河野氏の砦の一つとして、土肥義昌が1337年に川之江城を築きました。その後戦国時代には城主は妻鳥友春(めとり友春)でしたが河野氏に背き土佐の長宗我部氏に通じた為、河野氏配下の河上安勝によって落城しました。豊臣秀吉の四国平定以後は、川之江地方は小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わりますが、加藤嘉明の時代に川之江城は廃城となりました。一柳直家が1636年に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしましたが1642年に死亡し領地は没収され、以後天領となり再築はされませんでした。見どころは模擬天守閣、涼み櫓、桜の名所。アクセスはJR「川之江」駅から徒歩約13分
川島城 (徳島県吉野川市)
2013/05/15愛媛県の川之江城から徳島県へ移動です。川之江町は香川県も含む分岐点なので、ものの数分で県境です。等と言っている間に徳島自動車道に入りましたが時間に余裕があるので、一部だけ高速を使い後は一般道のR192を使います。しかし平日の一般道を甘く見たのか、結構渋滞で結局目的地に着いたのは15時過ぎになってしまいました。まあ何とか着いたので結果オーライです。川島城の所在地は徳島県吉野川市川島町にあります。早速入館し、受付を済まそうと思いきや誰も居らず、「ご自由に」との張り紙と資料が置いてありましたので頂いてきました。川島城の歴史は1572年に川島惟忠(川島これただ)が三好氏の家臣であった篠原長房(篠原ながふさ)を滅ぼした事で、その功績によりこの地を与えられ、長房の上桜城に代わって城を築きました。その後の1585年には蜂須賀家政の家臣である林能勝(林よしかつ)が城主となります。しかし一国一城令により1638年に廃城となり、その跡には徳島藩の奉行所が設置され明治になるまで存続しました。見どころは春季の桜、模擬天守資料館。アクセスはJR徳島線「阿波川島」駅より徒歩約10分
徳島城跡 (徳島県徳島市)
2013/05/15 15:30川島城の見学も終わり、本日最後の訪問先の徳島城に向うことにします。徳島中央公園に着いたのは16:30で、辛うじて間に遭いました。公園施設内の駐車場に車を止め、百名城スタンプのある市立徳島博物館へ急ぎスタンプをゲットしました。ここからはゆるりと公園内の城跡を見学します。この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していました。室町時代の至徳2年(1385)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築ました。頼之は助任川(すけとう川)の風光を中国の渭水(黄河の支流)に例え、この地を渭津(いつ)そして山を渭山(いやま)と名付けたとされ、または富田庄(後の徳島)の地頭として来任した河野通純が文永9年(1272)に築いたとも云われています。渭山の名についても、西から見た姿が猪に似ているため猪山と呼んだという説もあります。戦国時代になると阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わりましたが、天正10年(1582)には土佐国の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が侵攻し阿波が平定されました。天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国で18万6000石を授かりました。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城しましたが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し翌年完成しました。その後江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり明治維新を迎える事になります。見どころは徳島市立徳島城博物館、蜂須賀家正の像、徳島城跡地。アクセスはJR「徳島」駅から徒歩約10分
撫養城 (徳島県鳴門市)
2013/05/16徳島もあと撫養城(むや城)を残すだけです。徳島市内中央から鳴門方面に向って約10Kmなので、急がなくても十分時間があります。撫養城は別名岡崎城、林崎城とも云われています。と話している間に到着しました。場所は妙見山公園内にあり、城跡地に模擬城が建てられています。元々模擬城は徳島県立鳥居記念博物館(鳴門市出身の人類考古学者、鳥居龍蔵の業績を記念した博物館)となっていましたが、2010年11月に徳島県文化の森総合公園へ移転し、現在閉鎖になっているので入館はできませんでした。古くは小笠原氏源氏の居城と伝えられますが、いつの時代に築城されたかは定かではありません。 『多聞院日記』に「三好之長の執事に撫養掃部助」という人物があり、この撫養氏が撫養城主の小笠原撫養殿のことで、当時の三好氏が鳴門の海上に睨みをきかせていたことがうかがえます。天正十年(1582)長宗我部元親が阿波へ侵入し、撫養城も長宗我部配下の真下飛騨守が守備をしました。同十三年(1585)豊臣秀吉による四国征伐に軍功のあった蜂須賀家政が阿波の新領主として入国し、阿波北部の要衝である撫養城は益田内膳正忠に守らせた。その後徳川幕府の一国一城令により、寛永十五年(1638)この城は廃城となりました。(『日本城郭大系』)既述の様に現在お城は閉鎖されていますが、公園内は整備され、花壇や女性のブロンズ像等が飾られています。見どころは妙見山公園、撫養城の景観、 桜の季節。アクセスはJR鳴門駅から徒歩約20分
洲本城跡 (兵庫県洲本市)
2013/05/16撫養城で今回の四国の旅が終了になりますが、決して全ての城跡と歴史に纏わる土地を回った訳ではありません。また新たに目標を定め訪問したいと思います。それでは、四国を後に鳴門北ICから淡路島の洲本城を目指します。鳴門海峡を渡る鳴門大橋での景色は絶景で、うず潮など暫く見ていたいのですが生憎止める所がないので残念です。まあ一瞬でも目に焼き付きましたから、よしとしましょう。勿論撮影は無理でした。淡路島に入ってまもなく洲本ICです。ICを下車して洲本温泉街の方角に向い、約8分で洲本城の駐車場に到着しました。あとは徒歩で約10分のはずですが、行けども行けども天守閣が見えて来ません。あるのは復旧工事の足場とそれを覆うテントのようなものしか見当たりません。実は天守閣一階部分のコンクリートに剥離箇所が確認された事で修復工事(2011/03〜)を現在行っているそうです。残念ながら天守閣を拝観する事は出来ませんでした。沿革は大永6年(1526)三好氏重臣の安宅治興(あたぎはるおき)が築城しました。治興の後は養子の安宅冬康(三好長慶の弟)、冬康死後は長男信康、二男清康へ受け継がれ、天正9年(1581)の淡路討伐で総大将羽柴秀吉に落城し、城は仙石秀久(せんごく秀久)に与えられました。江戸時代になり姫路城主の池田輝政の三男忠雄(ただかつ)が領主になりましたが城は廃城となり、岩屋城から次に由良成山城を居城としました。これは関ヶ原の戦い以降も豊臣方大名の動きを牽制する為に、徳川家と縁戚関係にある池田氏(忠雄の正室は徳川家康の孫)に播磨灘と大坂湾一帯を防衛させました。大坂夏の陣のあと徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城の城代となりますが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移しました。この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれています。見どころは天守台の三熊山からの眺望、麓の淡路文化資料館。アクセスは高速バスの洲本バスセンター行き終点より麓まで徒歩約20分、頂上の城まで徒歩約60分
明石城 (兵庫県明石市)
いよいよ今回の大詰めは明石城になりました。2013/02/07〜02/11に中国四国地方の城巡りをした際、訪問予定に入っていたのですが時間の都合立ち寄れず、また帰宅途中にも立ち寄れませんでした。翌月の2013/03/19〜03/25に九州の城巡りした帰路の際にも、新山口から新幹線だったので名古屋まで素通りしてしまいました。従って今回の旅で百名城の旅としては、明石城を絶対取り逃してはいけない重要なお城です。2013/05/16淡路島を離れ西明石ICに近づいてきました。時間は11時過ぎと余裕の到着です。明石城のある明石公園に入り、まずお目当ては公園サービスセンターでの捺印です。これで取り敢えず、中国方面、四国方面、九州方面(沖縄除く)近畿地方、北陸地方、東北地方制覇ですが、あくまでも日本百名城での話です。明石城の歴史は元和3年(1617)徳川家康の外孫にあたる小笠原忠真(小笠原ただざね)が大坂の陣の軍功により10万石を与えられ、信濃松本より船上城(ふなげ城)(明石市)に入城しました。翌年二代将軍徳川秀忠から西国の大名を抑える為に新城造営を命ぜられ、畿内より中国と四国を結ぶ要衝であるこの地を選びました。幕府からは普請費用として銀一千貫目が与えられ、瀬戸内海を望む丘陵上に本丸を中心に二の丸、東の丸、三の丸、稲荷曲輪(いなりぐるわ)を設け、本丸の四隅に櫓(やぐら)を築きました。天守閣は台のみで建立しませんでした。築城当初の坤櫓(ひつじさるやぐら)は伏見城(京都市伏見区)の櫓を、また巽(たつみ)櫓は船上城の櫓を移したものと伝えられています。元和6年(1620)に築城を終え、忠真は船上城から明石城に移りました。その後、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家を経て天和2年(1682)に越前松平家が入封して明治維新にまで至りました。そして明治2年(1869)に廃城となります。これで今回の旅を終え、明石城から私は自宅のある名古屋に帰り少し体を休めます。見どころ は坤櫓の資料、天守台の石垣、近隣の市立文化博物館。アクセスはJR山陽本線「明石」駅、山陽電鉄「山陽明石」駅より徒歩約5分
石津の戦い (大阪府堺市)
2013/04/14に青森県の根城(八戸市)を訪問した時に紹介させて頂いた、南朝北畠顕家(きたばたけあきいえ)と南部師行が、北朝の高師直と戦った場所にこんなに早く訪れるとは思いませんでした。実は、2013/05/16明石城を経て名神・阪神の高速道路を使い、名古屋に帰るつもりでしたが、大阪方面を走行中ふと懐かしさを感じ、気の向くまま堺市に入り祖父が埋葬されている大安寺に献花を供えに行きました。もう参拝する人も高齢な為、足を踏み入れてない状態でした。私ごとですがお城跡巡りもいいけど年に一回は先祖供養で心身共に洗濯せにゃいかんですね。お墓参りを終えたその足で石津に向い、南北朝の戦いの舞台となった太陽橋付近を拝観しました。太陽橋とは既述の「根城」でも紹介させて頂いていますが、堺市西区の石津川に架けられた紀州街道の橋です。余談ですが、この地は東北地方のお城巡りの際33年ぶりで再会した旧友の育った故郷でもあり、敢えていえば偶然根城跡(青森県八戸市)の歴史絡みで記上したことが本当になった訳です。勿論私も少なからず、彼と同じ中学時代を過ごした想い出の場所でもあります。本題の「石津の戦い」は、南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338
年6月10日)に和泉国堺浦の石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方と北朝方の合戦で北畠顕家(きたばたけ あきいえ)は南北朝時代の南朝方の公卿の武将で、父は北畠親房(北畠ちかふさ)です。足利尊氏(足利たかうじ)を九州に敗走させた功により鎮守府大将軍(ちんじゅふ大将軍)となり建武4年より延元2年に各地を転戦します。翌年「石津河原の戦い」で北朝方の高師直(こうのもろなお)の軍と戦い討死しました。享年21歳。顕家公とともに戦死された甲州波木井梅平の城主南部師行公(南部もろゆき公)と共に供養されています。北畠家は村上源氏の庶流である事からか、源顕家公と刻印されています。見どころは史跡供養塔。アクセスは阪堺電軌阪堺線「石津」駅下車 徒歩約7分、私鉄南海電車「石津川」駅下車 徒歩約10分