大和郡山城 (奈良県大和郡山市)
久しぶりに奈良に行ってきました。奈良と云えば殆どの方が、世界遺産の寺社&仏像と思われがちですが、お城もなかなか捨てたものではありません。此処大和郡山城も名城100選にこそ入っていませんが筒井順慶の死後秀吉の弟、秀長が城主として入り紀伊、和泉、大和の三ヶ国で百万石を領したそうです。その後は、徳川家が領し城主が代々替わっています。訪問した当日盆梅展(盆栽に仕立てた梅木)が催されていました。所見は歴史のある町で飛鳥時代からの面影が漂っている風流な感じが偲ばれる。アクセスは近鉄橿原線 「近鉄郡山駅」若しくは少し遠くなりますがJR関西本線「郡山駅」下車 徒歩10〜20分程度
犬山城 (愛知県犬山市)
最古木造天守閣として現存している犬山城を訪問しました。この地は地元の愛知県なので何度となく来ていますが、名城100選スタンプラリーに登録をする為、新たな発見と新鮮さを求めて再登城しました。犬山城は木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城です。別名白帝城(はくてい城)は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを、中国は長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩にちなんで、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が命名したそうです。織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりで、以後親族関係の争いが絶えず、最終的には織田信長が制圧しましたが池田恒興・織田信雄・池田恒興・織田信雄と絶え間なく城主の争奪があり、これがきっかけで小牧長久手の戦いに発展することになります。豊臣時代には石川貞清が城主となり、関ヶ原の戦以降は徳川家傘下の小笠原吉次そして平岩親吉が城主となりました。1617年以降は城主不在の6年の空白を経て成瀬正成が城主となり、その後は成瀬家9代の居城となりました。1935年(昭和10年)に国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝)に指定、1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づき、あらためて国宝に指定されています。見どころは、天守閣が丸岡城、松本城に続いて古いのと、天守閣の木曽川の眺めで特に春の桜・秋の紅葉は絶賛です。アクセスは名鉄犬山線「犬山遊園駅」から徒歩約15分。
会津若松城 (福島県会津若松市)
会津若松城は福島県会津若松市追手町1-1にあるお城です。地元では鶴ヶ城と呼び、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い様です。文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされる事もある様です。最初若松城に行き約2週間後の2011年10月に二本松城を訪ねました。え! 何故同じ福島県に於いてと思われるでしょう。そうなんです、実は私は二本松城を知らなかったもので、そのまま仙台に向かってしまったのです。話を戻しますが、若松城はもともと黒川城と呼ばれ蘆名氏の居城で南北朝時代に築き上げられたそうです。その後と云いましても約200年近く経った戦国時代に連戦していた伊達氏に城を奪われましたが、秀吉に取り上げられ伊達氏は福島へ替わりに近江の蒲生氏郷が封じられました。氏郷は町の名を出身地の日野町(滋賀県蒲生郡日野町)にあった神社「若松の杜」と領地であった松阪から一字を取り黒川から若松に改名したそうです。その後転々と城主が替わり上杉氏、蒲生氏、加藤氏、保科氏と明治維新を迎えることになります。保科氏は会津藩松平家として戊辰戦争を戦うことになります。その戊辰戦争では白虎隊の話はあまりにも有名で、落城こそ免れましたが土佐の板垣退助をはじめ薩摩藩によって開城となります。見どころは天守閣(復元)の資料館には、戊辰戦争で亡くなった白虎少年隊士の遺影画が展示され当時の面影を物悲しく語っています。寄贈の鯱鉾が同様に展示されています、かなり高価なものだそうです。近くに武家屋敷もあり、室内には当時の刃傷も見る事が出来ます。観光時期は、春夏秋冬を問わず美景が堪能できそうです。アクセスはJR会津若松駅より路線バス鶴ヶ城・飯盛山に乗車し「鶴ヶ城北口」下車。
白河小峰城 (福島県白河市)
白河小峰城(しらかわこみねじょう)は、福島県白河市(陸奥白河郡白河)にあった城。単に白河城または小峰城とも呼ばれます。日本100名城のひとつであり、国の史跡に指定されています。残念ながら2011年の震災で本丸には入館できませんでした。歴史は会津若松城、二本松城より築城は古く源頼朝の家臣・結城親朝(ゆうきちかとも)が小峰ヶ岡に建て小峰城と名づけたと記されています。結城氏は秀吉の小田原攻めに参加しなかったことで改易となり、その後会津領となりました。会津の城主(上杉氏、蒲生氏)が代々兼務しながら支配を受け持ちました。寛永4年(1627)丹羽長重(にわながしげ)が幕命によって10万石に封じられ寛永6年に城郭の大改築を行い、その後も丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏、と7家21代の城主の交代がありましたが、慶応3年(1867)最後の阿部氏が棚倉に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなったそうです。慶応4年(1868)奥羽越列藩同盟(おううえつ、れっぱんどうめい)で新政府と戦い激戦の舞台となり大半焼失して落城しました。遠目に見る限りなかなかの城郭と復元櫓と思われますが、望遠での撮影しかできませんでした。アクセスはJR東北本線「白河駅」下車 徒歩約5分
愛知県犬山市 犬山城跡
岐阜城 (岐阜県岐阜市)
東海地区は城や砦の宝庫と云っても過言ではありません。何故か、天下盗りの武士が多かったからです。当然、戦も多い訳です。今回はその中でも皆さんがよくご存じの稲葉城、後の岐阜城です。2012年の師走に訪問しました。肌寒い日でしたが幸い天気も良く行楽日和になりました。岐阜城は山城ですので、山頂までのルートにロープウエイを使用しています。そう云えば愛媛県の松山城も途中までリフトを使用していました。当然、戦国時代は敵からの攻撃を阻止する為のお城ですから、現代の来観者は攻略しなくなるかもしれません。観光で来られる方は戦闘要員じゃない老若男女ですから・・。すこし脱線しましたが、沿革から入りますと13世紀の初めに二階堂氏が稲葉山に砦を建てたのがルーツの始まりだそうですが、然し親族争いなどで廃城になったそうです。15世紀中頃、美濃守護代の斎藤利長がこの城を修復して居城としました。斎藤氏の時代も永くは続かなく家臣の謀反などで家督を長井氏に奪われ、その後長井新九郎規秀(斎藤利政・後の斎藤道三)が後継ぎ城主となりますが、因果応報とはよく言ったもので、道三もまさか身内から災難が降り掛かって来るとは思いもしなかったでしょう。長良川の戦で嫡男の義龍に討たれる破目になりました。その後は、小説やドラマで天下布武を唱える織田信長が支配をすることになります。義龍と家臣竹中半兵衛とのエピソードは割愛させて頂きます。見どころは山城で山林が多く茂っているため近くで見るより遠目のほうが良いかと思います。勿論、天守櫓もあるので登城して頂いて拝観されることもお薦めします。アクセスはJR東海道本線「岐阜駅」および名鉄名古屋本線「名鉄岐阜駅」から岐阜バス行先番号「N32」〜「N86」の「岐阜公園・高富方面」行き、又は「市内ループ線(左回り)」で約15分。「岐阜公園・歴史博物館前」下車、徒歩約3分
大垣城 (岐阜県大垣市)
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となり、その後戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。場所は大垣市街の中央に位置する大垣公園の中に城郭があります。かつての大垣城郭であり、春は桜そして四季おりおりに風情を感じさせられます。戸田氏の入封する前は徳川家に忠誠を誓う武将の栄転地として石川三代、松平二代、岡部二代、松平一代が代々城主となっては去っていきました。見どころは大垣公園の季節の色彩と、四重四階建ての天守櫓・戸田氏鉄公の銅像です。アクセスはJR「大垣駅」から徒歩約15分。養老鉄道「大垣駅」からも徒歩約15分。
墨俣城 (岐阜県大垣市)
墨俣城は皆様もよく御存知だと思います。TVドラマ「太閤秀吉の妻」「さると呼ばれた男」「木下藤吉郎秀吉」等多くの物語の中で必ず出てきます。馬出し・柵・逆茂木を備えた龍に似た長城です。一夜城つまり墨俣城の事です。実際に一夜なのかは定かでないそうですが逸話という説もあり、ある書籍では永禄5年(1562年)の6月中旬に洲股砦城が建てられたという逸話が伝えられています。信長の命令で、最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が修造を試みるが失敗しました。そこで秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上し、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら砦城の建造準備を行い、とき6月中旬の雨で戦闘が中断した折、材木を組み立て一夜にして完成させました。「砦の普請まったく整い、清洲の信長に報告、金銀を褒美として賜る」と表現しています。司馬遼太郎著の墨俣築城に関して、「美濃攻めに於いて織田信長軍にとっては戦場が遠い事から、前線基地として墨俣に築城する必要があると、木下藤吉郎の進言で信長は築城を任せたところ、藤吉郎は3日でほぼ完成させた」と表現しています。詳細は明確でありませんが、恐らく信長の美濃攻略に於いて、小牧山からでは遠いと言う事で美濃領地内に砦を築き美濃勢を惹きつけ、本隊を岐阜城に差し向けるためであったかもしれません。墨俣城は州俣や墨股とも言われますが元々州股と呼ばれたようで、つまり州の股であり長良川の洲股は戦略上や交通の便でもいい中州であったそうです。見どころは常設された資料館に一夜城から出土された兜や秀吉を支えた人達の武功等が展示されています。アクセスはJR東海道本線「穂積駅」より車で約10分。東海道新幹線「岐阜羽島駅」より車で約15分。
岩村城跡 (岐阜県恵那市)
岐阜県恵那市岩村町に築城されている日本三大山城のひとつ岩村城跡を訪問しました。三大山城とは、備中松山城(岡山県)高取城(奈良県)で最も高い山城が岩村城(標高717m)です。過去3回訪れましたが、2回とも裾野の街並みを遠望した程度で特に興味をもてませんでしが、日本名城100選に登録されている事で今回再び登城しました。当日は平日ということもあり登城する人を見掛ける事はなく、一人寂しく頂上を目指しもくもくと登って行くつもりでしたが、普段の運動不足がたたり頂上まで約40分掛かりました。いやはやバテ気味でした。天守櫓等はありませんが、城跡の石垣が残っている程度です。誰の城かと云いますと源頼朝の重臣加藤景廉が文治元年(1185)に築いたと伝えられていますが、根拠となる資料がないそうです。ただ、遠山頼景の棟札が残っており、少なくとも永正期(1504〜21)には遠山氏が居城としていた事が分かります。美濃・信濃・三河の国境近くにある事から、武田信玄と織田信長による争奪戦の中天正3年(1575)に織田方に下り岩村遠山氏は滅亡しました。関ヶ原の合戦以後、松平家乗が入封して岩村藩が成立したそうです。明治維新までに大給松平家2代・丹羽家5代・大給分家松平家7代と替わり平穏に存続されました。見どころは城跡、いわゆる石垣等に興味のある方は必見かもしれません。一見大分県の岡城跡や兵庫県の竹田城跡に類似・・かも。アクセスは明知鉄道「岩村駅」岩村資料館まで徒歩約20分、城跡まで約40分
郡上八幡城 (岐阜県郡上市)
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていました。その後東氏は郡上八幡の町を挟んで反対側にある東殿山(とうどやま)に東殿山城を構えましたが、永禄2年(1559年)八幡山の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされました。遠藤氏は東殿山城を奪って郡上一円を支配したものの、この城を好まず東殿山城を攻撃した時の砦跡に城を築きました。これが郡上八幡城の起源だそうです。遠藤氏から稲葉貞通氏に一時城主が替わりましたが、関ヶ原の合戦以後遠藤氏が復帰し、その後は井上氏、金森、青山氏と替わり明治維新を迎えています。山頂へは舗装道路がありますが、山麓の駐車場には山内一豊と妻千代の銅像がありますので是非、観覧していって下さい。見どころは復元天守閣としては珍しい木造で造られている事。天守閣からの眼下の街並みは絶景なので堪能できると思います。アクセスは長良川鉄道「郡上八幡駅」、豆バスで10分、 バス停「郡上八幡城下町プラザ」下車、徒歩約20分。東海北陸道郡上八幡ICから車で約10分
この日訪れたのは確か2013年の事だったと思いますが、後日2017年4月に再訪問して来ました。その際、撮影して来ました郡上八幡城の画像を下段に追加しました。
浜松城と二俣城跡 (静岡県浜松市)>
小さいお城です。勿論復元なのであたりまえですが、徳川家康の出世城として名高い浜松城(上の画像)です。周辺に今川、武田、織田と巨大大名に囲まれ、若き時代を戦い生き延びそして天下盗りの夢を掴んだと云われています。二俣城跡(下の画像)は織田信長から猜疑を掛けられた家康が泣く泣く幽閉された城で、長男信康を切腹させたのがこの二俣城跡です。築城は今川氏と云われています。後に浜松城の守り城となり武田軍と徳川軍の合戦地として幾度も戦が繰り返されますが、落城はしなかったそうです。所見は浜松城は桜の時期等が観光としていいかもしれません。二俣城跡は天竜川に近く景観も非常に良く、また戦場にももってこいだったのかもしれません。アクセスは浜松城はJR浜松駅からバス「市役所南停」下車、徒歩約6分 二俣城跡は天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から北に徒歩10分